徳川家康公が生まれた岡崎城は、江戸時代には神聖化され、5万石と石高は高くはありませんが、岡崎城主となることは名誉あることで、家格の高い譜代大名が城主となったといわれています。
遠州公がこの地に訪れた際の城主は本田康紀公。遠州公と同じ天正7年(1579)生まれで、
初代三河岡崎藩主となった父の康重公の死去により家督を継ぎ、二代目藩主となりました。
この日記が記された2年後の元和9年(1623)家光公の上洛に従った後に病に倒れ、亡くなっています。
岡崎の街では家康公ゆかりの史跡が多く残り人々に親しまれています。4月には毎年恒例となっている「家康行列」が行われ、家康公をはじめ三河武士やお姫様に扮した約700名の行列が街を練り歩きます。最終地点となる乙川河川敷では戦国模擬合戦が繰り広げられ、岡崎の春の風物詩となっています。(※今年は残念ながら中止となりました。)
2006年、岡崎城は日本100名城に選定されました。宿場町としても栄えた岡崎は「家康の里」として今も親しまれています。
家康の祖父にあたる松平清康が現在の位置に城を移して以来岡崎城と呼ばれ、後の徳川家康も天文11年(1542)この岡崎城で生まれました。 その後人質として他国で過ごし、19歳の年に起こった桶狭間の戦いの後、岡崎城に戻り、名も松平元康から徳川家康と改め、家康の天下統一へ向けた取り組みが始まるのでした。
10年程岡崎で過ごした後、元亀元年(1570)には先日ご紹介した遠江浜松に本拠地を移し、岡崎は嫡男信康が、そしてその後江戸幕府が開かれてからは、「神君出生の城」として譜代大名がこの地を守っていきました。
30日 快晴
ここからほど近い岡崎の城主は知り合いであり、手紙が届く。
なかなか到着の知らせが届かず、そろそろかと心待ちにしておりました。
藤川に到着したと聞き、お会いできること喜んでおりますと
丁寧に手紙に書いてよこしてくださった。
その返事に
今朝は猶 いそぎ出ぬる 草枕
我をかざきに ひとのまつやと
やがて(すぐに参ります)
と書いて送った。
日が昇るころに?岡崎に到着。城主が出迎えにとわざわざお出ましくださる。
一緒に城に入り、ひとしきり語り合い、巳の時(朝10時~12時)頃に城をでる。
橋を渡り、矢作宿に入る。城主は名残を惜しんでこの宿にまで見送りくださった。ここに馬を留め、
もののふの やはぎがしゅくに いるよりも
なをたのみある ひとごころかな
と歌を詠む。城主は返しに
もののふの やはぎが宿に いるとしも
をしてかへれば かひやなか覧
と詠んでお帰りになった。
別れてから八橋というところに到着した。杜若の名所なので、たくさん咲いているだろうと思ってみたが見当たらない。
やつはしに はるばるときて
みかはなる 花には事を かきつばたかな
と詠むと、供の者が大変に面白がって話に興じているうちに地鯉鮒の里に着いた。
さらに進んでいって、そこに流れていた河があったので尋ねてみると、参河国と尾張の国の堺川という。
もう尾張の国に入ったのだなどという。
今日は9月30日なので、
東方 みちをばゆきも つくさねど
秋はけふこそ おはりなりけれ
と口ずさんで過ごし、芋川、阿野、有松の宿をも過て 鳴海の里に到着した。
伴う人の中に
年ごとに のぼりては又 くだれども
なにとなる身の はてはしられず
と詠む者もいた。
そこからまた笠寺、山崎の里を越えて 熱田の宮に到着し 宿をとる。
浜松には遠州公作と伝わる庭のある寺があります。
それが龍潭寺。龍潭寺は徳川幕府を支えた筆頭井伊氏の菩提寺です。2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、歴史に翻弄され、一度は出家をしながらも元許嫁の息子直政を井伊家の当主として育てあげるため還俗し、女城主として奮闘する直虎の一生が話題を呼びました。この直虎が出家し過ごしていたお寺です。
四季折々にその姿を変化させる美しいその庭は、遠江国に残る伝遠州作庭園といわれる「遠州三名園」の一つに数えられています。
井伊直政が彦根の佐和山城主になったのを機に、1600年彦根にも龍潭寺の分寺が建てられましたが、こちらの庭も遠州公作と伝えられています。
http://www.ryotanji.com/
東海道に里の名前は数あれど、五位の里とは位の高い里であるよと戯言を交わす遠州一行。
遠州公も慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に任ぜられていますので、自分より位が高いではないかと面白がったのでしょうか。
また「ゴイサギもいますよ。」と話題に出てきたこの鳥の名は「五位鷺」。
日中は休息し、朝夕活動し水辺でカエルなどを捕食する鳥で、こんな逸話があります。
醍醐天皇が、池にいたこの鳥を見つけ、捕えるように家来に命令しました。
鳥は逃げることなく素直に従ったので、命令にさからわず神妙であると、天皇から五位の位を授けられたといわれています。

これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。
旅日記では遠州公の知り合いの浜松城主が、
遠州をしきりに城にうながし、
出発の際にも名残を惜しんで見送る様子が記されています。
この浜松城は「出世城」としても有名です。
天下人となった徳川家康が、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごし、
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの時期にあたります。
家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの譜代大名が守り、
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
歴代城主の中には幕府の要職についた者も多い
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)
ことから、後に「出世城」と言われるようになりました。

28日 朝天晴。
知り合いである浜松の城主が使者をよこしてきた。
中和泉を過ぎて、天龍川の船渡を経て、浜松にさしかかる。
城主がまた遣いをよこしてきたので、案内させて城に入る。
長いこと滞在していたが、お昼頃にぱらぱらと雨が降り出した。
今日は城にお泊りくださいと城主にしきりに引き留められるのを辞して、
今切のほとりまでは進みたいと思っていることをお伝えして城をあとにした。
城主は名残を惜しんではるばる見送りにでてくれて別れた。
細雨が降り、風も静かであった。その名の通りの浜松は二本並んでいる。
汀に寄せ来る浪の音も、松の間を抜ける風の音も美しく響いている。
浪の音に はま松風の 吹合せ
折から琴の 音をや調ぶる
霧雨のような衣が濡れるほどではない雨が降るなか、新井の渡りに到着する。
急に風が激しくなって、波も音を立てている。雨足も強くなってきた。
山風の 秋の時雨を 吹来ては
浪もあら井の わたし舟哉
雨と浪で濡れた袖も乾かしおわらぬうちに舟からおりた。
ここで宿を取り一泊。燭の明かりが灯る頃、京都から文が届けられた。
故郷のことなどの話を聞いて過ごした。
夜も更けたが、雨風は止む気配がない。
旅日記には二むら山と記されていますが、先代の宗慶宗匠が実際にこの地を訪れ尋ねてみるとなかなか見つからない。
地元の人には「にそんさん」と呼ばれていたそうで、お寺にたどり着くまで苦労をされています。
ふたむらも にそんも同じ 言なれど
道まどはせる 法蔵寺哉
紅心宗慶宗匠
青葉から次第に紅葉する葉が吹き乱れ、
まるで錦をまとったかのような美しい山の麓に佇んでいた法蔵寺は、
松平の初代親氏が建立し、家康公が幼い頃読み書き等手習いをしたと伝わるお寺です。
また手習いの際に水を汲んだといわれている「賀勝水」と呼ばれる湧き水は、日本武尊が東国征伐のときに「加勝水」と名付けたと伝わっています。
そして時は幕末となり、もう一つ大きな出来事が。
山腹には新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚があります。
明治元年東京板橋で斬首され京都三条大橋西に晒された近藤勇の首を同士が持ち出し、近藤が生前敬慕していた京都誓願寺住職に託されました。そして住職が転任した法蔵寺に運ばれたといわれています。当初は、石碑を土で覆い、ひっそりと弔ったといわれ、昭和33年に発掘調査が行われ、石碑の台座と近藤の遺品と思われる品が出土しました。
さて遠州一行は境川にさしかかり、三河国へ入ります。
境川は三河国と遠江国の国境で、現在は、静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境となっています。
この地三河吉田城主であり、親しい間柄であった松平忠利は遠州公より三歳年下で三河深溝で生まれました。
父・家忠は「家忠日記」とよばれる日記を残しており、当時の様子がうかがえる貴重な資料となっています。
伏見城の戦いで鳥居元忠と共に戦死。
父の弔いにと忠利は参陣を希望しますが、留め置かれたといいます。
関ヶ原の戦功により父祖の旧領三河深溝に1万石を、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増されました。