能と茶の湯

2016-12-30 UP

12月 30日(金)能と茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
今年の初めから一年に渡り、能と茶の湯について、
そのゆかりの茶道具とともに
ご紹介してまいりました。
他にも「野の宮」「竹生島」「熊野」等々
今回ご紹介できなかった能も沢山あります。

中世、世阿弥によって完成した能の理念、
ここからおよそ150年程のちに利休によって
大成した侘び茶の精神
この侘びの世界に遠州公は幽玄の世界を重ね合わせ、
茶の湯と能とがつながって、豊かな世界が広がります。

同時に茶人の教養として、茶の湯の他に能などの
文学的教養が下地にあったことも伝わってきます。
普段何気なく目にしている茶の湯の道具の意匠にも
能の世界が隠れているかもしれません。
是非探されてみてはいかがでしょうか?

さて、明日はとうとう大晦日。
年越しのご準備で大忙しの皆様
一息つきましたら、まずはお茶を一服。

良いお年をお迎えくださいませ。

11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-20 UP

11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(2)

ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして今日は「道の記 下り」を
ご紹介します。

「下り」が記された寛永十九年(1642)は
先日ご紹介した遠州公の江戸四年詰めが始まる
年でした。
「徳川実記・大猷院記」には五月二十六日に
将軍に参謁したという記録があります。

その江戸行きの前に、遠州公は江月和尚や京都所司代
などの親しい人を招いて、名残を惜しむかのように
「在中庵」や「飛鳥川」茶入などで茶会を催しています。

この旅が親しい人達との今生の別れとなる
と感じていたのではとも思える、
寂しさの感じられる節々もあり、
今一度京都へ戻りたいと願う心が読み取れます。

心を共にした友人たち、松花堂、長闇堂は既に
この世におらず、江月和尚も遠州公が
江戸に出府中の寛永二十年、十一月に
この世を去っています。

9月11日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-9-11 UP

9月11日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺・金地院(八窓席)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南禅寺・金地院をご紹介します。

黒衣の宰相とも称され、家康の側近として
絶大な権力を持ち活躍した以心崇伝。
その崇伝は応仁の乱でほとんど消失してしまった
南禅寺を再興します。その際、遠州公に複数の
建築や作庭を依頼しています。

崇伝の自坊であり、家康の東照宮が分祀された
金地院には、各大名や将軍が御成になることも
考えられ、遠州公は家康公への畏敬と崇伝の繁栄も
願って神仙蓬莱式の枯山水を構想しました。
各大名から寄進された名石を配したこの庭は
「鶴亀の庭」と呼ばれています

また三畳台目の茶室「八窓席」は
複数の連子窓や下地窓を機能的に配して
外からの自然光が茶室全体を回るように工夫がされています。
ちなみに全ての窓を数えても六窓ですが、
八窓席と呼ばれています。

遠州公が崇伝の依頼を受け、構想を始めたのは
先週ご紹介した大方丈の庭とほぼ同時でしたが
金地院の方が大方丈の二年後に完成しています。

9月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-9-4 UP

9月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭」

ご機嫌よろしゅうございます。

各地の寺社などでは、その庭を
「遠州作と伝えられています」
と解説されていることが多く見受けられます。
その全ての真偽は定かではありませんが、
それだけ遠州公の当時の影響が強かった
ことがわかります。

そのような「伝遠州作」の庭の中で、
この南禅寺は、残された文献等から遠州公作
と確認できる数少ない作品の一つです。

借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、
別名「虎の子渡し」と呼ばれ,左端の大きな親虎と
その横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すと
いわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、
他の児虎を食べてしまうそうです。
そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を
最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて
渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、
三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。
そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて
渡るのだそうです。
母虎の子を児を想う気持ちが表れた
優しく雅雅な印象の庭園です。

7月 17日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-7-17 UP

7月 17日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「名古屋城」

ご機嫌よろしゅうございます。

慶長十三年(1608)に駿府城の造営の命を受け、
その四年後には尾張藩名古屋城天守閣作事奉行
を拝命します。
この城は大坂冬の陣・夏の陣に備えてつくられたもの
でしたが、大勢はほぼ徳川の勝利
遠州公は、天下泰平の象徴となるような優雅で
美しいお城を作りました。

一方以前ご紹介した大阪城は、豊臣勢力の象徴
ともいえ、西日本支配を確立するために
豊臣方の威光を完全に払拭する城をつくることが
求められました。そのため従来の城にくらべ
より大きく、権力を誇示する外観となっています。

天下泰平を象徴する名古屋城
権力の象徴であり豪壮な大阪城

同じお城でも、求められる役割がそれぞれに
あったということが興味深いところです。

遠州公はこれら城郭建築に手腕を発揮し、
その名を世に知られていくことになります。

7月 15日 (水)遠州流茶道の点法

2015-7-15 UP

7月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「宗実家元好茶箱」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は先週に引き続き茶箱についてご紹介します。

宗実家元が好まれた茶箱「青海茶箱」

青海は、どこまでも広がる大海原に絶えず繰り返される
穏やかな波を青海波と呼ぶことに因み、この茶箱を手にして、いつでも、
どこでも、お茶を一服頂けるように、
「茶の湯を通して心を豊かに」という宗実家元のモットーを表現した銘名です。

正面縁が爪紅になっており、深い緑に紅がよく映えます。
蓋には立礼・天籟と同様、ENSHUの字を
デザインしています。
正面から茶碗・茶筅・茶巾等全ての道具が引き出せる
仕組みになっています。
【告知】

6月 19日(金)遠州公所縁の地を巡って「道の記」その1

2015-6-19 UP

6月 19日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」その1

ご機嫌よろしゅうございます。

元和七年(1621)四十三歳の折、
江戸から京都への道中を記した旅日記が残っています。
まだ人々が自由に旅を楽しむことができなかった時代。
遠州公は公務のため江戸をたち、京都へ戻ります。

9月22日に江戸を出発、
10月4日に京都へ到着するまでの12泊13日の
様子を、和歌や詩を交え書き記しています。

道のりにして500キロ
東京から京都まで、新幹線に乗れば3時間かからない
現在に比べると、時間ははるかにかかります。
大変なことも多かったことと思いますが
四季の移り変わりを直接に感じ、
道みちの様子を眺めながら、そして知己との交流
を深めながらゆっくりと進む当時の旅は、
とても楽しそうです。

この旅日記は各大名から書院飾りとして求められた
りしたようで、二代目大善宗慶、権十郎蓬雪、
三男十左衛門正貴などが、父である遠州公の旅日記を
書写しています。

来週はその一部を紹介します。

5月25日 (月) 五月雨(さみだれに)に…

2015-5-25 UP

5月25日 (月) 五月雨(さみだれに)に…

星ひとつ 見つけたる夜のうれしさは

月にもまさる 五月雨のそら

ご機嫌よろしゅうございます。

そろそろ雨の多い季節がやってきます。
空を見上げても、ぐずついていることが多く、
なかなかすっきりとした夜空を見ることも
難しくなるのではないでしょうか。

先程の歌は遠州公が茶杓の銘につけた歌です。

節から切止へ降りていった左側に
小さな虫食いがあり、
遠州公はこの虫食いを星に見立てて
この歌銘をつけました。
曇りがちな梅雨の頃の夜空に、星を見つけた
ときの嬉しさ
茶杓の景色としてとても映える虫食いの竹を
見つけた喜びにかけてこの歌銘がつきました。

遠州公の茶杓は煤竹や、虫食いなどを景色にした
瀟洒なつくりのものが多く、見所が多いです。

3月 20日 (金)遠州公の異国好み

2015-3-20 UP

3月 20日 (金)遠州公の異国好み
公開討論会テーマにそって

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は 遠州公ゆかりの地、伏見からはなれ、
明日21日に行われる公開討論会のテーマ
遠州公の異国好みにちなみ、遠州公と
関連のある異国の地についてご紹介します。

遠州公はその綺麗さびの美意識から、海外のものを
茶の湯に巧みに取り入れていきました。

オランダ
長崎奉行を通じてオランダに茶碗を注文したり、
大西浄久にオランダの文字を配した茶釜を作らせています。
また葡萄酒を会席の前にお出しするなどしていました。

中国
中国には祥瑞と呼ばれる染付の茶陶を、
景徳鎮に注文しています。その種類は香合・茶碗・水指・向付・会席鉢など多岐に
わたっています。

韓国
切型とよばれるお手本をもとに御本
茶碗を焼かせています。
その代表は御本立鶴茶碗です。

東南アジア
南蛮・嶋物など、様々な茶道具を見立てています。
また間道の裂にも遠州公が深く関わっています。
舶来の織物のなかに縞模様があり、それを仕覆に
したのも遠州公です。
間道は当時あまり知られていなかったもので
大変斬新なものでした。
遠州公が関わった名物の茶入には、
ほとんどこの間道が添えられています。

またペルシャやヨーロッパの裂を道具の箱の風呂敷に用いるなど
細かいところまで心配りしていました。

遠州公の取り上げた海外の道具は枚挙に尽きません。
異国情緒漂う物を巧みに茶の湯に取り入れていたこと
がわかります。

2月 13日 (金)伊吹大根

2015-2-13 UP

2月 13日 (金)伊吹大根

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公の茶会記には、菓子として

きひ餅 ささけ掛テ
くりの粉餅 伊吹大こん
はけ目鉢ニミつくり
(「小堀遠州茶会記集成」年不詳十月八日)

という記載があります。
このうち、息吹大こんとは
小堀村にある伊吹山でとれる大根です。

甘辛く醤油煮にして口取りとして
お菓子につけています。

伊吹山のふもとで古くから栽培されてきた
伝統野菜の伊吹大根。
形がユニークで、葉と首が赤紫色を帯びていて
根は太短く丸みをもっています。
「峠大根」とか、先端がねずみの尾のように細長いことから
「ねずみ大根」とも呼ばれていました。

辛味の強い大根で、そばの薬味としても江戸時代から
評判になっていたそうです。
この故郷の大根を、自身の茶会に用いていたことが
茶会記から読み取れます。

この伊吹大根、しばらく作られておらず
幻の大根となっていましたが、近年郷土野菜として
復活しました。
しかし他との交雑を防ぐ必要があり純粋種の
生産量は多くないのだそうです。