建築・作庭

作事奉行とし禁裏や城、茶室の作事を行い今もなお現代の建築家の手本となっている。 茶道にも共通する端正な美学が作庭や建築物にも表現され、現存する大徳寺孤篷庵、金地院などがその代表とされる。仙洞御所、二条城、大坂城、水口城、江戸城西の丸、品川御殿御茶屋など数多くの造営は、作事奉行としての遠州の評価の高さを示している。

 

忘筌の間(京都・孤篷庵) 重要文化財

 孤篷庵は大徳寺塔頭の一つである。小堀遠州は、慶長17年に江月宗玩和尚を開山として、大徳寺竜光院内に孤篷庵を創立するが、寛永20年現在地に移し、建物と庭を造った。 篷は舟の上をおおう苫のこと、孤篷は孤舟を意味する。

 その後、寛政5年の火災で災害にあったが、出雲藩主松平不昧の援助により、旧規によって再建されたのが、現存の建物である。
  忘筌の席は客殿の西北部にあり、西庭に面した12畳の広間である。 庭に面する板縁の先に、地上136センチの高さに中敷居を通し、その上部に明り障子4枚を入れている。 下部は開放して、舟入りの間の形をとり、また茶室への「くぐり」も兼ねており、露結と刻した尻ふくらの手水鉢を、どっしりと据えてある。 すぐれた意匠として名高い。

 柱は角柱に長押を回してある。この長押は床の落とし掛けの上まで延びている。 天井板は砂摺りして、胡粉を擦り込んだものであり、天井小壁は白漆喰塗り、襖と張壁には狩野探幽筆『水墨山水図』を張り、床の左方の小壁に、遠州筆『三月の訪れとともに椿の種類も、椿や本阿弥などの丸い霜のものから、先の細いもの、小さいものが多くなります。この椿は自庭のもので、常より葉の形が丸く、その緑を背景にして白が際立ちます。木五倍子も三月らしい添えの枝です。』の額がある。 荘子の「魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘る」から採ったもの。筌は魚をとる道具で、竹製のいわゆる「やな」、蹄はけものを捕える「わな」である。魚や兎を捕まえてしまうと、その捕える道具や手段などを忘れてしまうように、理を悟ってしまうと、教えを忘れ無心になる境地をいう。

 所在地は、京都市北区紫野大徳寺町。

忘筌の間(京都・孤篷庵)
忘筌の間(京都・孤篷庵)