3月 9日 (月)菜の花
菜の花や
月は東に 日は西に
与謝蕪村
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は春を代表する花
「菜の花」をご紹介します。
家元もお雛様の頃に、稽古場などで
水盤に桃と菜の花を入れられることもあり
とても可愛らしい取り合わせです。
その黄色い花は目で見て、
そして味わって春を感じることの
できる植物です。
「菜の花」という名前は「野菜(菜っ葉)の花」
という意味からついた名前だそうです。
おひたしや和え物(あえもの)として食べられます。
弥生時代に中国から渡来してきたといわれ、
当初は種を絞って「菜種油」として利用するために
栽培されていたようです。
観賞・菜種油・食用等用途によって品種が分かれ、
食用としての菜の花が普及したのは明治時代以降と
いわれています。
3月 6日 (金)遠州公所縁の地を 巡って
「 伏見六地蔵の地」
ご機嫌よろしゅうございます。
文禄4年 遠州公が十七歳の時に、君主・秀保が
急死、父、新介は秀吉の直参となり、
伏見六地蔵に居宅を移します。
現在の伏見の六地蔵尊の南側百メートル
あたりに屋敷があったと思われます。
この屋敷には寛永二年(1625)遠州公四十七歳
に伏見奉行屋敷が出来るまで居宅として
使われていたようです。
さて、京都では六地蔵巡りという行事があります。
この伏見の地蔵尊をはじめ、計六ヶ所の地蔵を巡礼する
というものです。
慶雲2年(705)藤原鎌足の子、
定慧によって創建された大善寺、
その地蔵堂に安置する地蔵菩薩立像は、平安時代の初め、
小野篁(おののたかむら)が、一度息絶えて冥土へ行き、
そこで地蔵尊が苦しむ人々を救う姿を見ます。
その後蘇った後に、一木から刻んで六体の地蔵を掘り
祀ります。
当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていため
「六地蔵」の名がつきました。
その後、平清盛が都に通じる主要街道の入口に
残り五体を分祀し、これらの地蔵を巡拝する
六地蔵巡りの風習が生れました。
3月5日 (水) 遠州流茶道の点法
硯屏(けんびょう)
ご機嫌よろしゅうございます。
書院飾りや、違棚などに飾られる硯や筆などの
文房具。これらは室町中期頃の書院式茶の時代から
見られる飾りですが、その中に硯屏(けんびょう)
とよばれる文房具があります。
これは硯の前に立てて、埃や風などが硯に入らないよう
にする小さな衝立のようなものです。
侘び茶の大成により、書院式茶は一時すたれ、
文房具飾りなども姿が見えなくなっていましたが、
遠州公がこの書院茶を復興。書院飾りも再び用いる
ようになったのです。
遠州流茶道では遠州公が考案し、この硯屏を
取り入れたお点法があります。
初入りに文房具飾りをし、濃茶の時にこの硯屏を
用いてするお点法です。
茶道法典では、釣釜と共に紹介されているため
この時期のお点法と思っていらっしゃる方
も多いようですが、本来は四畳半切の普通の濃茶で
使用し、炉開きの頃から4月まで季節を問わず行える点法です。
3月2日 (月)明日は三月三日
ご機嫌よろしゅうございます。
明日は三月三日雛祭りですね。
中国の習俗が伝わり、少女の健やかな健康を
祝う行事へと変化した雛祭りですが、
陰暦の三月三日には「踏青」という行事も
行われていました。
これも中国から渡ってきた行事で、
野原に出かけ、青草を踏んで遊ぶという
今で言えばピクニックのような行事で
陰暦初春から中春にあたる
正月七日・二月二日・三月三日に行われました。
江月和尚が、遠州公の次男である権十郎篷雪の
道中傘と杖の絵に賛をした軸が残っています。
その讃に
上巳佳辰在武陵(じょうみのかしんぶりょうにあり)
芒蛙徒破本無能(ぼうあいただにやぶれてもとむのう)
今朝知禰踏青節(こんちょういよいよとうせいせつをしる)
埜草深中且過僧(やそうしんちゅうかつかそう)
三月三日客武州野 求愚作者也
とあります。
ちょうど三月三日に江戸にいた江月和尚が
踏青節の故事にちなんで友人と青草を踏み
遊宴されたのでしょう。
2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。
遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。
そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。
十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。
2月25日 (水) 台目切
ご機嫌よろしゅうございます。
お濃茶のお点法を稽古すると
広間と台目のお席で若干置き位置などが
異なり、戸惑われることがあるかもしえません。
台目とは台目切りの茶室でのお点法の仕方のことで
お稽古場では台目棚と呼ばれるものを
置いてお稽古なさることも多いかと思います。
特に茶事において、濃茶はこの台目切りの茶室で
行われることが多いものです。
台目については
【台目畳は、1畳の長手から台子の幅と風炉先屏風の
厚み(一尺五寸)とを切り取った畳のこと。
(略)紹鴎が好んだというが不詳。】(「茶室の見かた」)
【このような構えの最も早いのは、利休が大坂に
設けた深三畳台目である。中柱をもつ台目構えは
台子はもちろん、いかなる「棚」も使用させない
構えであって(略)点茶構えに対する草体化の
究極的な一つの姿であった。】
(「角川茶道大事典」)
などとあるように、侘び茶らしい構えのお点法になります。
畳が短くなる分、手元の道具の位置関係も
随分変わってくるので、注意が必要です。
書院・広間に比べて、侘びの意識で道具が組まれていることも
注目なさってお稽古してみてください。
2月 23日 (月)江戸の野菜 小松菜
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「小松菜」についてご紹介します。
この野菜、江戸で取れた野菜で、しかも
名付け親はあの将軍吉宗ということを
ご存知でしょうか?
江戸初期には武蔵国葛飾郡(現:江戸川区)
の小松川付近で多く栽培されていました。
享保4年(1719年)に八代将軍吉宗が小松川村に
鷹狩りに訪れました。
この小松川村は「鶴御成(つるおなり)」
と呼ばれる鶴の猟場の一つで、
当時鶴の肉は鳥類の中でも最高のご馳走でした。
この小松村の香取神社を御膳所(休憩や食事をする場所)
としていたため、神主の亀井和泉守が、
地元で採れる青菜を入れたすまし汁を吉宗に献上しました。
吉宗はこの青菜の味と香りを大変気に入り、その名を尋ねました。
「とくになまえはついておりません」と答えると、
「このようなうまい菜に名前がないのは残念なことだ
この村のなまえをとって、これからは小松菜と名付けよ」
と命じられました。
やがてこの将軍が名づけた小松菜の
評判は全国に広がっていきました。
現在では一年中手に入る野菜ですが、
当時は冬の貴重な緑黄色野菜で、
霜が降りる頃からおいしくなるため、
昔は冬菜・雪菜などと呼ばれていました。
遠州公が小堀村で産まれ、過ごした時は、そう長くはありません。天正十三年(1585)豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を連れて大和の郡山城に入城します。遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人として城内に屋敷をもらい、遠州公も共に郡山に移り住みます。
遠州公が七歳から十七歳までの約十年間をこの郡山で過ごすこととなります。織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、天正8年(1580)筒井から郡山に移り、明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。
ところが、本能寺の変から山崎の合戦(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と状況は次々と変化していきます。
秀長が入城する五年前に、織田信長はここ郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、郡山は更に栄えていきます。
また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。ここで遠州公は後の人生を方向付けるいくつかの出会いがありました。
2月 18日(水) 蓋置
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶で使用する蓋置は基本的に青竹の
「引切り」を使用します。
(書院で棚を使用する場合などは
砂張などの蓋置を使用する場合もあります。)
これは、その点法一度きりのために用意された
ことを示し、その竹の青さが「清浄」を表します。
これは本来木で拵えたものの多くに当てはまることで
茶筅や柄杓、黒文字なども、使い切りとして
作られたものでした。
竹蓋置は、武野紹鴎が節合一寸三分に切り、
面桶の建水とともに水屋に使っていたものを、
利休が一寸八分に改めて茶席に使用したといわれています。
蓋置に使用される真竹は、一本の竹が2~3m程で
その内節は2~3個ほどしかありません。
普段何気無く使用している大変貴重なものです。
2月 16日 (月)西行と桜
ねがはくは花のもとにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
ご機嫌よろしゅうございます。
この歌は平安の歌人西行法師の詠んだ歌です。
西行は裕福な武士の家系に生まれます。
院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ
武勇に秀で歌人としての才もあった西行の名は、
広く知られていました。
しかし、西行は22歳の若さで、全てを捨てて出家
してしまいます。
この歌は60才代中ごろの作といわれています。
2月15日はお釈迦様の入滅の日で
平安時代から涅槃会など、
お釈迦様の遺徳を偲ぶ習慣がありました。
このお釈迦様が涅槃に入ったとされる
「きさらぎの望月」のころに
西行は「死なむ」と詠んでいます。
悟りの世界に憧れ、全てを捨て出家した後も、
現世への執着を捨てきれずもがきつつ
気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。
実際に亡くなったのは
七十三歳で1190年の旧暦2月16日。
(新暦でいうと3月24日頃)
「きさらぎの望月」の翌日。
まさしく「そのきさらぎの望月の頃」に
亡くなったのでした。
さてその死に際して、桜は咲いていたでしょうか?
今となっては定かではありませんが
江戸時代に入って西行を慕う僧がその墓を発見し、
西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、
心からの弔いとしたそうで、
現在では千本以上もの桜が墓を抱く山を覆っています。