6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘

2015-6-8 UP

6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘

ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨の時期の外出に傘は欠かせません。

そして昔は雨の時、蓑を使用していました。
今日はこの蓑にまつわる太田道灌のお話をご紹介します。

太田道灌は江戸城を造ったことで有名です。
築城の名人で、また歌人としても知られた武将でした。

さて、神田川の桜並木に「面影橋」という橋が架かっており
この面影橋に「山吹の里」という石碑があります。

ある日、鷹狩に出かけた若き道灌が、
にわか雨に遭遇し、村のあばら家で蓑を借りようとしました。
しかし家から出てきた少女は無言のまま、
山吹の一枝を道灌に差し出します。

その意味が分からない道灌は怒って
その場を立ち去りましたが
あとで家臣から

七重八重 花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき

という後拾遺集の歌に寄せて、少女が
蓑のひとつさえ持てないかなしさを
山吹の枝に託したのだと聞かされます。
自分の無学を恥じた道灌は
それ以降歌道に精進したといわれています。

6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って 「江戸城での茶会」

2015-6-5 UP

6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。

元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る

将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。

年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。

また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。

5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-29 UP

5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ

ご機嫌よろしゅうございます。

元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。

この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。

遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。

二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。

現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。

5月22日(金) 遠州公所縁の地を巡って

2015-5-22 UP

5月22日(金) 遠州公所縁の地を巡って
女御御殿

ご機嫌よろしゅうございます。

元和四年(1618)遠州公40歳の折
秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公は
その女御御殿の作事奉行となります。

この作事は、何人かの奉行の内の一人として
一部分を割り当てられたのではなく、
最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を
担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価
されての任命といえます。

元和六年(1620)に和子は入内し、
後水尾天皇の女御となります。

寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた
後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には
譲位されます。

遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と
天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も
奉行しています。
またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も
庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、
寛永十年から十三年まで三年を費やしました。

この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城
伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり
四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます

4月 17日(金)遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

2015-4-17 UP

4月 17日(金)

遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。

3月 25日(水) 遠州流茶道の点法

2015-3-25 UP

3月 25日(水) 遠州流茶道の点法
「釣釜」(つりがま)

ご機嫌よろしゅうございます。

4月も近づき炉辺も暖かくなってきました。
炉の季節も終わりに近づくと
釣釜をかけてお茶を点てます。

昨年のメルマガでも触れましたが、
小間では台目切りの席の場合、
台目柱と直線が重なってしまうため、行いません。
釣釜は広間にかけて使用します。

小間では炉中の灰を深く掘り、火をお客様から少し
遠ざけ、釜の高さを調節しながらお点法を
行います。釜は炉の時より少し小ぶりなもの、
筒形のものをかけます。

現在では春の時期に掛けられる釣り釜ですが
本来は季節を問わず掛けられていたものです。

遠州公は茶会の際、小間から書院へ移る際に
鎖の間といって、釜を鎖でかけた席を通る設えを
用意しました。(書院と小間を繋ぐ鎖の意味
とする説もあります。)

点法では、お点法の前に釜の高さを上げ、
お点法の終わりにはまた高さを下げて
湯を沸かしておくことが特徴です。

3月 23日 (月) 中興名物「忠度(ただのり)」

2015-3-23 UP

3月 23日 (月) 中興名物「忠度(ただのり)」

行き暮れて木の下陰を宿とせば

花や今宵の主ならまし

ご機嫌よろしゅうございます。

中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」
という銘のものがあります。

「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた
能の一つです。

平清盛の末弟であった忠度
ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする
老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、
老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。
この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を
弔うために植えられた木でした。
そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ
「行き暮れて」の歌を、
「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)
とされた心残りを語るのでした。

風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと
須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に
調和した名曲です。

この忠度が薩摩守だったことから
細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆
と言われています。

2月27日 大和郡山での遠州公の出会い

2015-2-27 UP

2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。

先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。

遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。

そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。

十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。

2月 23日 (月)江戸の野菜 小松菜

2015-2-23 UP

2月 23日 (月)江戸の野菜 小松菜

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は「小松菜」についてご紹介します。
この野菜、江戸で取れた野菜で、しかも
名付け親はあの将軍吉宗ということを
ご存知でしょうか?

江戸初期には武蔵国葛飾郡(現:江戸川区)
の小松川付近で多く栽培されていました。

享保4年(1719年)に八代将軍吉宗が小松川村に
鷹狩りに訪れました。
この小松川村は「鶴御成(つるおなり)」
と呼ばれる鶴の猟場の一つで、
当時鶴の肉は鳥類の中でも最高のご馳走でした。

この小松村の香取神社を御膳所(休憩や食事をする場所)
としていたため、神主の亀井和泉守が、
地元で採れる青菜を入れたすまし汁を吉宗に献上しました。
吉宗はこの青菜の味と香りを大変気に入り、その名を尋ねました。

「とくになまえはついておりません」と答えると、
「このようなうまい菜に名前がないのは残念なことだ
この村のなまえをとって、これからは小松菜と名付けよ」
と命じられました。

やがてこの将軍が名づけた小松菜の
評判は全国に広がっていきました。

現在では一年中手に入る野菜ですが、
当時は冬の貴重な緑黄色野菜で、
霜が降りる頃からおいしくなるため、
昔は冬菜・雪菜などと呼ばれていました。

2月 16日 (月)西行と桜

2015-2-16 UP

2月 16日 (月)西行と桜

ねがはくは花のもとにて春死なむ

そのきさらぎの望月の頃

ご機嫌よろしゅうございます。
この歌は平安の歌人西行法師の詠んだ歌です。

西行は裕福な武士の家系に生まれます。
院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ
武勇に秀で歌人としての才もあった西行の名は、
広く知られていました。
しかし、西行は22歳の若さで、全てを捨てて出家
してしまいます。

この歌は60才代中ごろの作といわれています。
2月15日はお釈迦様の入滅の日で
平安時代から涅槃会など、
お釈迦様の遺徳を偲ぶ習慣がありました。

このお釈迦様が涅槃に入ったとされる
「きさらぎの望月」のころに
西行は「死なむ」と詠んでいます。

悟りの世界に憧れ、全てを捨て出家した後も、
現世への執着を捨てきれずもがきつつ
気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。

実際に亡くなったのは
七十三歳で1190年の旧暦2月16日。
(新暦でいうと3月24日頃)
「きさらぎの望月」の翌日。
まさしく「そのきさらぎの望月の頃」に
亡くなったのでした。

さてその死に際して、桜は咲いていたでしょうか?
今となっては定かではありませんが

江戸時代に入って西行を慕う僧がその墓を発見し、
西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、
心からの弔いとしたそうで、
現在では千本以上もの桜が墓を抱く山を覆っています。