ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年(1621)9月22日、午時
(うまのとき)、ちょうどお昼を
過ぎた頃。
遠州公は江戸駿河台の屋敷から出発し、
京都への旅が始まります。この時43歳。
前年には嫡子正之が誕生しています。


遠州公の屋敷は牛込と駿河台にあり、この駿河台の屋敷には秀忠の御成を迎えた
と考えられています。将軍にお茶を差し上げるにふさわしい数寄屋の整った屋敷
でした。
駿河台は江戸城に近く、武家屋敷が並んでいました。その屋敷の敷地は広く、
明治維新の際に政府に土地が返還された後は、大学等になったそうです。
遠州公の屋敷跡には後に中央大学の校舎が建ち、現在では商業ビルが建てられて
います。
酉 9月
22日天快晴 午時許にむさしの江戸を立したしき人々のここかしこ
馬の餞すとて 申時許 科河(しながわ)の里をいでて
いそぎけれども 酉時許に神奈河里に着
此所に一宿 宵燭ほどに又ともだちの名残
おしみて馬の餞すとて 酒肴 小壺に茶を入 文添てをこせたり
その返事 その返事 取集たる言種いひやる次に

別といふ心を
かへりこむと ちぎるもあだしひとごころ
さだめなき世の 定めなき身に
…
小堀宗慶著「小堀遠州 東海道旅日記 上り」
編集小堀遠州顕彰会 にっかん書房

ご機嫌よろしゅうございます。
昨年に引き続き先月まで遠州公指導の茶陶をご紹介してまいりました。
今月から遠州公の旅日記として残る「東海道旅日記」に記される地の
今・昔をご紹介していく予定です。
遠州公は1622年9月43歳の時に上りの記、21年経て1642年64歳の時に
下りの記を書いています。
京都から江戸、江戸から京都までの旅路。
新幹線や飛行機を使って数時間で移動できる現在とは異なり、一日の移動時間約9時間半、
12泊13日という長い時間をかけて遠州公も旅をしました。しかしその道中を記す日記に
は、景色を愛で、旧友との別れや再会を想う心境が歌や詩でつづられており、
とても心豊かな旅であったことがわかります。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は阿蘭陀茶碗をご紹介します。
遠州公の時代には既にオランダからの
陶器が舶来品として入ってきており、
オランダへの注文に関しては長崎のおらんだ
商館の記録が残っています。
注文が盛んになるのは寛永年間(1624~44)
末頃からで、土型や木型を本国に送って作ら
せています。
遠州公の箱書のつく「おらむだ 筒茶碗」
は遠州公の好んだ高取や薩摩などの半筒茶碗
と同じ形に、小堀家の家紋である七宝文をあ
しらっています。
こちらはおそらく前田利常か堀田加賀守を通
じて注文したものと推測されます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。
赤膚焼の歴史
赤膚焼(あかはだやき)は奈良市五条町でつくられる陶器で、五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられていました。天正年間には、郡山(こおりやま)城主・大和大納言秀長(豊臣秀長)が尾張・常滑の陶工である与九郎を招いて開窯したのが始まりであるといわれていますが、江戸中期までは詳しいことはわかっていません。天明年間(1781-1789)には京都の陶工・治兵衛らが五条山に移り築窯し、寛政年間(1789-1801)には郡山藩主・柳沢堯山(ぎょうざん)の後援を得るようになりました。堯山没後は一時衰微しますが、天保期(1831-1845)に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、写物を焼成し再興しました。
赤膚焼の特徴
「赤ハタ」印は亮山から拝領したもので、「赤膚山」の印は以前から使われていたとされています。赤膚山とは窯のある丘の名称です。その後、治兵衛窯では仁清写しをはじめとする各種の写し物が盛んにつくられるようになりました。寛政以降は、西大寺の大茶盛などによって広く知られるようになり、奥田木白が名をあげました。作品には「赤膚山」や「木白」の印が捺されています。現在見られる白萩釉調の作風も木白に由来するものです。
今日では、赤膚焼は五条山の古瀬治兵衛堯三を元窯として複数の窯が続いています。俗に遠州七窯の一つといわれますが、源流としての茶陶の生産はさらに古くから行われていたと考えられます。現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼です。
赤膚焼と小堀遠州
遠州七窯に数えられてはいるものの遠州公以後の窯と考えられています。遠州公との関連は明確ではありませんが、秀長に仕えた父のもとで青年期を過ごされた大和郡山の窯であることから、何らかの関わりがあったのではないかと思うと、大変興味深く感じます。
古曽部焼の歴史
幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに古曽部焼があげられています。伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。そのため遠州以後の窯と考えられています。寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。「古曾部」の印を権十郎蓬雪侯の筆とされていますが定説がありません。
丹波焼の歴史
六古窯の一つに数えられる丹波も、遠州公が関わった窯の一つです。その発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。初期の頃の丹波焼は、桃山時代まで穴窯を使った焼き締めの紐作りで、窯の中の炎と灰による自然釉の光沢を帯びた重厚な美しい、口の大きい甕などを主に制作しました。桃山の終わり頃には釉薬も使われだし、ドベと呼ばれる泥を塗って釉を掛けたような風情のものも焼かれます。慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)も取り入れられました。江戸時代に茶陶も焼かれ始めましたが、伊賀焼や、信楽、等の他の窯場に比較すると作風は強い個性を示してはいません。
丹波焼の特徴
丹波焼は他の古窯と比べると若干異なった歴史を歩んできました。窯のつくりも非効率、生産性の薄いものでした。しかしこの原始的で不合理な窯であるがゆえに、計算では作りえない自然の傑作が創出されたことも事実です。また、元々丹波の土は鉄分を多く含んだ酸性土で、釉薬が掛かりにくく、そのために焼き締めによって土味を引き出したのでした。この丹波焼の渋さを醸し出す土は、耐火度や粘り、白さなど好条件は一つとしてなく、どちらかといえばつくりにくい土。その決して良質とはいいがたい陶土と向き合ってきた陶工の苦労はどんなに大きかったことでしょう。しかしながら土の良し悪しなどといった考え方は人の勝手な言い分であり、丹波焼を激賞した柳宗悦は「上下を定める人間の分別の勝手さを考えざるを得ぬ、下品化生の人間の救いを契う他力門のあることを忘れてはなるまい。丹波焼は余すところなくその他力美を示している。その底知れぬ美しさは人間の不合理性、自然の合理性に遠く由来してくるのである。」と評しています。
丹波焼と小堀遠州
丹波焼がしばしば茶会記に記されるようのなるのは寛永年間にはいってからで「宗甫居士道具置合拵」には寛永七年五月二十三日「一茶碗 丹波焼 一水指 丹波焼」とあり翌八年九月四日に「一水滴(水滴型茶入) 丹波焼」とあります。 さらに同月二十二日に「一 茶入 生埜」とあります。この時期に丹波のどこかの窯屋と遠州との間に特別な関係があったことを物語っています。とくに「生埜(いくの)」茶入(湯木美術館蔵)は、丹波焼茶入第一の名作と評価が高く、優しい丸みを帯びた輪郭とちょこんとついた耳が印象的です。遠州公との関わりができるようになってからの茶陶丹波焼は、ほとんど黒飴釉や茶褐色の釉のかかった施釉陶で、瀟洒な作行からは他の窯同様「綺麗さび」の美意識を強く感じます。
能舞台の大甕
丹波焼の大甕が意外なところで使われている場所があります。それは能舞台。兵庫県篠山市の春日社の能楽殿は、丹波篠山藩主青山忠良が文久元年(1861)に奉納したもので、そのとき丹波の陶工に焼かせたのが七個の大甕です。「立杭釜屋村 源助作」とへら描きされています。春日神社の能楽殿は、“箱根より西では最も立派”と言われているそうで、この舞台を使って、兵庫県能楽文化祭が頻繁に行われているのだそうです。舞台の音響効果を高めるために大甕が床下に置かれていて、中央に置かれた大甕はシテ柱の方向に口を向けています。足で床を踏み、音を発する。これも太鼓や笛と同様、舞の音楽として使われる効果で、この演出に丹波の大甕が一役買っています。