11月 2日(月)口切の文

2015-11-2 UP

11月 2日(月)口切の文

ご機嫌よろしゅうございます。

11月に入り、炉を開く季節になりました。
また茶壺の封を切る口切の季節でもあります。

古くは霜が降りてから、落葉樹の葉の色づき加減を
みるなどして炉を開くなど、その時々の四季の
変化に応じて茶の湯も行われていました。

古田織部も自邸の柏の木の葉が色づくころ
炉を開いたと言われています。
遠州公もまた同じく、自然の変化に応じて
いたようで、こんな文が残っています。

壺の口切めでたく存候
茶すぐれ申候  竹の花入出来候而
気相もよく候之由様可為本望
委曲久左衛門可申候                        恐惶

九月二十五日              遠州花押

くれ竹のま垣の秋の色に香に
はやここちよしちよの白菊

9月25日付の文には、既に口切を済ませ、
お茶の具合もよく、また自作の花入も満足な
ものができたと喜んでいます。
9月には既に寒さが早くやってきたのでしょう。
先人の茶の湯は現在のそれとは異なり、
自然とともに流れ、変化に応じていく
ゆるやかで豊かな心が感じられます。

10月 28日(水) 遠州流茶道の点法

2015-10-28 UP

10月 28日(水) 遠州流茶道の点法
「無盆唐物点(むぼんからものだて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州流茶道では名物の茶入でも肩衝のものは
盆にのせて点法しないことはご紹介しました。
その唐物の点法についてご紹介します。
まず漢作と唐物という語について事典を見てみましょう。

漢作
中国産茶入のうち年代古く上作な類をいい、
単なる唐物と分けている。
いずれも古来重宝され大名物に属している。

唐物
中国茶入の総称
唐物を初代藤四郎が中国から土と薬を持ち帰り焼いたもの
と『古今名物類聚』では定義するが、
その分別は判然としない。…
漢作は宋代を中心とする中国産で、唐物もやや時代は
下るが中国産との見解が強い。…
「角川茶道大辞典」

「漢作唐物」と「唐物」の分類は曖昧で、
その分類は伝来に依っています。

遠州流では無盆唐物と点いう点法があります。
盆を使用しない肩衝の唐物点の際は、
その格調にあった格の高い道具組がされます。

これまでご紹介した天目、相伴付がこの点法に加わると
台天目(袋天目)無盆唐物相伴付
という非常に長くて難しそうなお点法になります。

10月26日(月)村雨(むらさめ)

2015-10-26 UP

10月26日(月)村雨(むらさめ)

村雨の 露もまだひぬ 槇(まき)の葉に

霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

寂蓮法師

ご機嫌よろしゅうございます。
秋の過ごしやすい気候では、時々にわか雨が
降ることがあります。この秋の突然の雨を
村雨や時雨といったりします。
雨の多い日本ならではの表現です。

さて、先ほどの歌はにわか雨が過ぎた後、
まだ乾ききらない槇の葉のあたりに
霧が立ち上っている、
秋の夕暮れの景色を歌っています。
静かな、そして寂しさの感じられる秋の夕暮れの
光景がとても趣深く、日本画のような描写です。

この歌を銘とする茶入が、
瀬戸金華山玉柏手の「村雨」で、
下から上に霧が立ち昇るような景色があるところから
遠州公が命銘したものです。
胴が締まった玉柏手で形状は本歌に酷似しています。
胴の中程がややくびれた筒形は、
唐物にはない瀬戸独自の形です。

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って

2015-10-23 UP

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。

遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。

また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。

宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。

政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。

10月 21日(水)遠州流茶道の点法

2015-10-21 UP

10月 21日(水)遠州流茶道の点法
「中興名物(ちゅうこうめいぶつ)」

ご機嫌よろしゅうございます。

先週に引き続き今日は盆点の中興名物について
お話しします。

中興名物は先週ご紹介しました松平不昧の
『古今名物類聚』に
不昧が大名物以後の名物を選定した
遠州公に由来する名物茶入を鑑別して
中興名物茶入を定めています。

大名物と中興名物の点法での違いは、
盆の扱いに見ることができます。
点法のはじめや、拝見に出す際に
お盆の表・裏の清め方が異なります。
さらに中興名物では茶入を乗せたまま
盆を扱うことが多くありますが、
大名物では必ず盆から外して扱います。

10月 19日(月)天高く…

2015-10-19 UP

10月 19日(月)天高く…

ご機嫌よろしゅうございます。

秋は食欲の秋、読書の秋と言われるように
気候が穏やかで、なにをするにも
気持ち良く過ごせますね。
そんなお天気がよい日が続く、過ごしやすい
秋の季節に使われる言葉に

天高く馬肥ゆる秋

という言葉があります。
気候が穏やかで食欲も湧いてくる
馬もよく草を食み、大きく成長する…

という意味で使われていることが
多いかもしれません。
緑の広がる草原で馬がのんびりとして過ごす
のどかな風景を思い描けそうですが、
実はこの言葉、中国において
「秋になると馬が育って騎馬民族が
攻め入ってくるから用心する時季であり警戒せよ」
というのが本来の意味なのだそうです。

10月16日 遠州公所縁の地を巡って

2015-10-16 UP

10月16日  遠州公所縁の地を巡って
「加賀と遠州公」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と加賀の前田家について
ご紹介します。

120万石の大大名であった加賀前田藩ですが、
外様大名であり、監視の厳しい幕府へ反抗の意志なし
との表明として軍事費を極力抑え、財力のほとんどを
文化政策に注ぎました。
三代藩主前田利常は、歴代藩主中傑出した
業績を残した大名です。
その利常の指導役として遠州公が働き、
四代光高に引き継がれ、加賀・金沢に茶の湯を
はじめとする見事な芸術文化が花開きました。
遠州公と前田家では二代藩主利長が遠州公の甥である
小堀重政を、また利常が遠州公の孫にあたる小堀新十郎を
召抱えるなど、茶の湯を通じてできた深い関係がありました。

また熱心に茶の湯指導を仰ぐ利常の書状など
よく残っていますが、他にも庭園についての助言もして
いたようで、遠州公に関わる多くの建物や庭が存在します。
利常は遠州公の一言で大津の別邸で工事中の庭園を取り壊し、
琵琶湖や叡山を借景とした雄大な庭園に造り変え、
遠州公は「これこそ大名のお庭である」とほめたそうです。
また兼六園の一部、金沢城本丸茶室と路地、
兼六園から金沢城二の丸につながる逆サイフォンの技術も、
遠州公の設計といわれています。
そして、隠居した利常は、遠州公に指示を仰ぎ、数奇屋を築き
できあがった書院や数奇屋を「遠州屋敷」と呼んでいました。

金沢の地にも遠州公の綺麗さびの心が根付いていることが
わかります。

10月 14日 (水)遠州流茶道の点法

2015-10-14 UP

10月 14日 (水)遠州流茶道の点法
「大名物(おおめいぶつ)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は大名物の茶入についてお話しします。
遠州流茶道では盆点法の中でも
大名物・中興名物の扱いの二種類があります。

大名物とは
「茶道具の位付の中で御物を含む
最高位の道具の称。
大名物の呼称が一般化するのは十八世紀末で、
それを定着させたのは松平不昧の『古今名物類聚』
である。
…遠州以後の名物である中興名物とそれ以前の
大名物の二種に名物を規定した。…
(角川茶道大辞典)」
とされていますが、識者によって見解は異なり、
範囲は明確ではありません。
しかい、遠州流点法に「大名物扱い」と「中興名物の扱い」がありますので、
その違いは遠州公の選定を一つの境にしていると考えられます。

大名物の茶入を使用する点法では
その扱いも通常の点法とは別格に扱われます。

10月 12日(月)秋の七草

2015-10-12 UP

10月 12日(月)

秋の七草

ご機嫌よろしゅうございます。 春に七草があるように 秋にも秋の七草があります。 この秋の七草を山上憶良が詠んだ歌が 万葉集に載っています。 秋の野に 咲きたる花を指折り(およびをり) かき数ふれば  七種(ななくさ)の花   萩の花 尾花葛花 撫子の花   女郎花 また藤袴   朝貌(あさがお)の花 春は食べて楽しむ七草、 秋は観て楽しむ七草とも言われますが、 昔から  萩は垣根に使われ 尾花(すすき)は屋根に葺く材料に、 葛からはでんぷんをとり 撫子は種にある利尿作用が 女郎花(おみなえし)と桔梗は咳の薬に 藤袴は乾燥させて寝床にいれ、 香りを楽しみました。 先人の知恵のつまった七草です。

10月 9日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-10-9 UP

10月 9日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「品川林中茶屋」

ご機嫌よろしゅうございます。

寛永十五年(1638)、家光が大徳寺百五十三世
澤庵宗彭のために東海寺を建立します。
この建物のうち、客殿と数寄屋、そして庭園の造営
を遠州公が手がけました。
その庭は後世江戸第一の庭と絶賛されるものとなりました。

この東海寺には遠州公にまつわるもうひとつの
エピソードがあります。
寛永二十年(1643)三月十四日、将軍家光が
東海寺に御成になりました。
池には丸い島が三つ浮かび、その内の一つの島には
丸石が置かれ、そこから小さい松が一尺ほど
出ていました。
この石に名をつけよとの家光の命。
澤庵が「天の羽衣」「無心草」とお答えしても
将軍の意にかないません。
そこで遠州公が「万年石」と一声あげました。
品川御殿にある杉の大木を、家光が「千年杉」と
名付けていたことを踏まえての名でした。
将軍は大変お喜びになり、自分の着ていた羽織を
遠州公に与えたといわれています。

遠州公が手がけた建物や庭
現在ではその姿を目にすることはできませんが、
遠州公が寺に寄贈した天目茶碗(9月16日にご紹介)
が今も寺宝として伝えられています。