12月18日(金)遠州公の墓

2015-12-18 UP

12月18日(金)遠州公の墓

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。

正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。

遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。

京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。

12月 16日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-16 UP

12月 16日(水)遠州流茶道の点法
「中立・濃茶」

ご機嫌よろしゅうございます。

炭点法・会席が終わると一度席を改める
中立ちです。
この間に辺りが暗くなっていれば石灯籠に
灯りが燈ります。裏方はこの石灯籠の中に
火をいれ、障子紙を水貼りします。

白い紙の奥にうつる柔らかい光は、暗がりの
露地の景色をより一層美しく引き立ててくれます。

銅鑼の音が聞こえたらいよいよ席入りです。
濃茶では、客は静かにお茶が点つのを待ちます。
通常の稽古ではお菓子をいただいてお茶を飲みますが、
本来は会席の最後にお菓子をいただき、
中立ちで口も清めるので、濃茶の席では
お茶本来の甘み・苦味をじっくり味わいます。

12月 14日(月)王服茶

2015-12-14 UP

12月 14日(月)王服茶
ご機嫌よろしゅうございます。

12月13日は事始め
いよいよ新しい年を迎える準備を
始める時期となりました。
かつて京都の空也堂では、
事始めから大晦日まで、
僧が手製の茶筅を売り歩く風習がありました。

この茶筅でお茶を点てると無病息災の
御利益があるといわれ、お正月に頂くのが
慣わしでした。

村上天皇の時代、都に疫病が流行しました。
空也上人は観音菩薩に疫病調伏を祈願し、
茶筅で点てた茶を供えて民衆に分け与えました。
この空也上人については11月16日にご紹介しました。
茶を服した者はたちまち平癒したといいます。
これを知った天皇が、正月三ヶ日に茶を
召し上がるようになったそうです。
その風習は「王服茶」と呼ばれ、
この故事に因み、空也堂の僧侶は師走になると、
正月の王服茶を点てるための茶筅を売り歩いたのでした。

12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-12-11 UP

12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見へ帰る」

ご機嫌よろしゅうございます。

正保二年(1645)遠州公六十七歳
江戸四年詰めの最後の年。
四月に許しを得て伏見へ帰ります。
その際、将軍より立花丸壺の茶入を拝領します。

六十八歳の折には門人や松屋久重に
利休との初めての出会いについて語っています。
「遠州云、十歳の時利休ニ逢たるよ
大和大納言殿へ太閤御成ノ時
給仕を十歳の時仕たるよ  」(甫公伝)

伏見に戻ってからも遠州公は盛んに茶会を催し、

六十七歳で二十一回
六十八歳で三十七回

伏見奉行屋敷において、友人知人を招いています。
また、六十八歳の時にはぶどう酒を茶会に用いた
という記録が残っています。

12月9日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-9 UP

12月9日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・会席」

ご機嫌よろしゅうございます。

亭主がお客様それぞれに挨拶をして
風炉の場合は会席が、炉の場合は
まず部屋を暖めるため炭点法をはじめます。
炭点法が終わると亭主は
「粗飯を差し上げます」
と挨拶して、お膳を出し会席が始まります。

茶事で振舞われる会席は日本料理の
基礎となっていると言われています。
これまで、自分で調味料をつけていただく
スタイルから、予め調味されて出される
お仕着せ料理へと変化していきます。
また三の膳、五の膳など、豪華で目の前にずらりと
膳が並び、食べきれない程の量が出された本膳料理から
膳が一つに限られ、一つ一つ食べ終わるごとに
そのつど温かい料理が適当なタイミングで運ばれて
食べきれる量のスタイルへと変化していきます。

遠州公も一つ一つの料理を少量にして、食べきれる
料理をお出しするよう工夫しています。

12月7日 (月)針供養

2015-12-7 UP

12月7日 (月)針供養

ご機嫌よろしゅうございます。

明日12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日
で「臘八」と呼ばれます。
これについては昨年ご紹介しました。
また12月8日は針供養の日でもあります。

この針供養の日は
関西と関東では日にちが異なり
関東では2月8日
関西では12月8日に行われるのが
一般的なようです。

この針供養では
折れたりして使えなくなった古い縫い針を
こんにゃくや豆腐などに刺して供養する行事です。
いつも固いものばかり刺している針を
労わる気持ちから、柔らかい蒟蒻や豆腐に刺して
供養するのだそうです。

豊臣秀吉も、織田信長に仕える前の若き頃
縫い針を売る行商をして
旅を続けたと言われています。

12月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-12-4 UP

12月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵」

ご機嫌よろしゅうございます。

寛永二十年(1643)遠州公六十五歳
の時、手狭になったため、孤篷庵を龍光院から
現在の地へ移しています。

孤篷庵は作事奉行として数々の建築や庭に携わった
遠州公が、自らの好みで設計したものです。
孤篷庵内の茶室「忘筌」は客間として使われ、
遠州公は茶頭に点法をまかして、お客様と
歓談を楽しんだことでしょう。

遠州公が亡くなるのが、
この孤篷庵ができてから二年後。
短い時間でしたが、この自分の好みを
最大限に反映させた茶室で
茶の湯を楽しみました。

残念なことに孤篷庵の建物は、遠州公が亡くなって
から約百五十年後の寛政五年(1793)に焼失。
その後、遠州公を崇敬する松平不昧の指導と援助に
よって、寛政九年~十二年頃に再建されました。

12月 2日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-2 UP

12月 2日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・寄付と席入」

ご機嫌よろしゅうございます。

お茶事当日。
入り口に打ち水され、門があいていたら
準備ができている合図です。お客はそのまま
寄付(よりつき)とよばれる場所に入ります。
寄付で身支度を済ませ、香煎を頂いた後に外腰掛に出て迎付(むかえつけ)に備えます。
ここからは亭主とお客、言葉を交わさず
客は黙礼で応じ、亭主が去ったらお客も移動をはじめます。
露地を進み、蹲(つくばい)で手と口、を清めます。
この露地を歩く間にも
庭の景色に目を向けつつ心を落ち着け、清めながら
茶室へ向かいます。

その後お客が席入りし、躙り口の鍵が閉められる
音が聞こえると、亭主は皆様茶室に入ったことを
察し、ご挨拶にでます。

さて、お客様のうちでちょっと遅刻されると
連絡がはいった時、
宗家では寄付でお香を焚いて
しばしお香を聞きながらお待ちいただくことがあります。
お香を寄付で聞いた場合は香炉の香が
飛ばないように露地を歩いて床の間に飾り、
後で亭主にそのお香のお礼を申し上げます。

11月 30日 (月)木守り

2015-11-30 UP

11月 30日 (月)木守り

ご機嫌よろしゅうございます。

柿や柚子、様々な自然の恵みをいただき、
収穫する際に、来年の豊作を祈り
木に一つだけ採らずに残しておく実があります。
これを「木守り」といいます。

そしてこの「木守」という銘をもつ茶碗があり、
長次郎七種茶碗に数えられています。
長次郎七種茶碗とは
黒楽の「大黒」「東陽坊」「鉢開」
赤楽の「早船」「臨斎」「検校」「木守」
の七碗をいいます。

この「木守」の銘の由来は、
利休が弟子に長次郎の茶碗を分けた際、
この一碗だけは最後まで手放さなかった
あるいは門人に選ばせ、最後に残った一碗である
または茶碗の姿が柿に似ていることから
など諸説あります。

後に高松藩主松平家に献上され、武者小路千家では
家元襲名披露など重要な茶会の際に松平家から
借りて茶会を行っていましたが、関東大震災で
壊れ、後に破片の一部を使い復元されます。

高松ではこの「木守」の茶碗にちなんだ菓子が
作られており、その模様は渦巻きが描かれています。
これは「木守」茶碗の見込みの渦巻きを模したものだ
そうです。

11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-27 UP

11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(3)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は道の記下りの一日目
寛永十九年十月八日の日記の一部を
ご紹介します。

「神無月初の八日武府(ぶふ)に赴く為」

洛北の傍より餞別の志を一偈して 消息そへて給ふ
おほやけのことしげきに ひらきもえせで
その日もくれ竹の 伏見のさとを
まだき朝に立て関山をこえて うち出の里に着」

公務が忙しく、出発の前日に江月和尚からいただいた
手紙を読む暇もなく一日すぎてしまった。

「道の記」はこの一文から始まります。
このなかの「ことしげきに…くれ竹の…」
という一節からは、遠州蔵帳所載
遠州公自詠歌銘のついた茶杓

ことしげき 年は一夜に くれ竹の
伏見の里の 春のあけぼの

の歌が思い浮かびます。