1月 22日(金)能と茶の湯
「利休と能」
ご機嫌よろしゅうございます。
侘び茶の大成者である千利休は、
大変能が好きで、勧進能といわれる
能の興行ごとに足を運び、宮王道三・三郎
兄弟の能楽師の楽屋をときおり訪ねていた
といいます。
また、この三郎には宗恩という妻がおり、
利休の様々な質問にも明朗な回答をする
聡明な女性でした。
利休は謡曲をこの兄の道三に学び、道三は
利休に茶を学ぶ大変親しい間柄であったことも
あってか、
天正九年(1581)に利休の先妻が
亡くなった翌年、三郎を亡くしていた宗恩と
利休は道三を親がわりとして結婚しています。
また利休には実子道安がいますが、
三郎と宗恩との間にできた息子道安と同い年の
少庵を養子とします。
この少庵が千家第二代であり、三代目は
少庵と利休の娘お亀との間に生まれた宗旦です。
この宗旦と遠州公は同い年になります。
1月18日(月)お稽古場の風景
ご機嫌よろしゅうございます。
今年の点初めも無事に皆様をお迎えし
宗家道場では本年初の稽古が始まりました。
床の間を拝見し、お稽古の支度
新年を寿ぐ清々しい道具組に
気持ちも自然と引き締しまります。
そんな宗家道場の稽古場の様子をお伝えします。
床 紅心宗慶宗匠筆 千年丹頂鶴
花 曙椿 白梅
花入 青磁 鳳凰耳
掛け物の「千年丹頂鶴」は「万年緑毛亀」
(まんねんりょくもうのかめ)
と対句になります。
「鶴は千年、亀は万年」という言葉も
ありますように、鶴と亀は共に長寿と福寿を
象徴するものです。
新年や慶事の際に掛けられる、
祝慶を尽くした語です。
1月 15日(金)茶の湯と伝統芸能
「能について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は能と茶の湯についてのお話を
して行きたいと思います。
庶民の芸能から昇華され、室町時代には
足利将軍家の力を得て社会的地位を獲得した能
そして、同じく室町時代に侘び茶が大成し
権力者の支持を得て発展した茶の湯
江戸時代には、能・茶の湯共に武家社会の
嗜みとしての地位を確立していった歴史があります。
またその精神性においても
村田珠光の言葉に「月も雲間のなきは嫌にて候」
とあるのを、室町後期の能役者・金春禅鳳が
「珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。
これ面白く候」
と語っているように
茶の湯の「侘び」と能の「幽玄」の世界には
相通ずる点が多くあります。
そういった面からも茶の湯の道具には、
能に由来する銘が多く見受けられるのです。
能の銘がつけられることによって、
一つ一つの能の世界が茶の湯に広がります。
1月 8日 (金)茶の湯と伝統芸能
ご機嫌よろしゅうございます。
先日6日は二十四節気の小寒にあたりました。
この小寒から節分までが「寒の内」と
呼ばれ、厳しい寒さの始まりです。
さて、本年から能・狂言について
毎週金曜日にご紹介する予定でおりますが、
茶の湯と能、花などの芸能は同時代に
昇華された芸能と考えられています。
遠州公も茶道具の銘に和歌を用いた歌銘を
つけたことはよく知られていますが、
和歌だけでなく、能や狂言からも銘を
つけている道具が多くみられます。
今年の前半では能・狂言の演目をご紹介しながら
所縁の茶道具をいくつかご紹介していきます。
後半では落語の中に登場する茶の湯を
ご紹介します。
落語の祖とされる安楽庵策伝は遠州公とも
所縁の深い人物です。
近世、茶の湯が人々にどう親しまれていたのか
その笑の中に見えてくるのではないかと思います。
1月 1日(金)元旦
皆様
明けましておめでとうございます。
本年も遠州流茶道の精神である
「茶の湯を通して心を豊かに」を胸に、
日々の生活に茶の湯の心を取り入れ
ていきたいと思います。
本年は宗実御家元の華甲の年に当たり
遠州流茶道にとっても大変重要な一年間と
なります。
9月17日のお家元の誕生日 には記念の大茶会がと祝賀会行われます。
全国の門人一丸となって
関連行事に取り組み、盛り上げていきましょう。
さて、本年から毎週月曜日は季節の便り、
金曜日は伝統芸能と茶道をテーマに
主に能・狂言・落語について、
ご紹介していく予定です。
本年もメールマガジン「綺麗さびの日々」を
よろしくお願いいたします。
12月 30日 (水)遠州流茶道の点法
「大晦日の茶」
ご機嫌よろしゅうございます。
明日はいよいよ大晦日。
新しい年を迎える準備はお済みでしょうか?
宗家では明日、恒例の除夜釜が行われます。
寄付で温かい御手製の蕎麦がきをいただいたら
成趣庵で家元がお客様に濃茶を点てて下さいます。
歳暮のお茶では挽貯の茶入のように、普段裏方で
使われているような道具類が使われたり
深くて温かみの感じられる茶碗、会席では寄向(よせむこう)
といって色々な種類の焼き物をとりまぜて、
方々から寄せ集めてきた向付などをお出しして
暮れの風情を楽しみます。
普段の茶事では広間に席を移していただく薄茶も
年の瀬では薄茶を続けて差し上げる配慮をしたりします。
一年あっという間に過ぎてしまった名残惜しい
気持ちと、また新たな年が始まる期待感、
その二つの気持ちが入り混じった特別な時間。
茶の湯では、その想いを道具にのせて
一同お茶をいただきます。
さて、今年のメールマガジンも今日で最後。
本年もありがとうございました。
来年のメールマガジンも新たなテーマで
配信していく予定です。
それでは皆様
どうぞよいお年をお迎えください。
12月28日 (月)亡羊(ぼうよう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残すところあと4日となりました。
今年の干支は羊でした。
その羊に関する故事で、こんなものがあります。
中国戦国時代、思想家の楊朱の隣家から
羊が一匹逃げました。大勢の者が追いかけますが、
道がいくつも分かれていたために、
取り逃がしてしまいました。
それを聞いた楊朱は、
「学問の道もいくつもに分かれていて、
真の道がわからなくなる」と嘆いたといいます。
このことから
「多岐亡羊」
(岐き多くして羊を亡う)
という言葉が生まれ、
学問の道があまりに幅広いために、
容易に真理をつかむことができないことのたとえ
また、あれかこれかと思案に暮れることのたとえ
に使われるようになりました。
遠州公と親交のあった江戸初期の儒学者
三宅亡羊は名を島といい、寄斎と号しましたが
晩年にこの亡羊の号を用いました。
12月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「辞世の句」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日で遠州公所縁の地にちなんだお話も
最後となりました。
今日は遠州公の辞世の句をご紹介したいと
思います。
遠州公は六十九歳の二月六日、
伏見奉行屋敷で亡くなりました。
きのふといひ けふとくらして なすことも
なき身のゆめの さむるあけほの
今までの人生と遣り残したこと
その全ての欲を捨て去った時に
人間は人間に取って一番大切なものが
何であるかと言うことを知るのだ。
今までの人生と残した仕事さえ、
亡くなって逝く自分には
曙の中ではかなく覚めてゆく
夢のような気がする.
12月 23日(水)遠州流茶道の点法
「薄茶・後礼(こうれい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は濃茶までお話しました。
今日はお茶事の最後、薄茶についてお話します。
濃茶をいただいた後は席を広間に移して
薄茶をいただきます。
歳暮に広間にうつらず、小間のまま続き薄をすることも
ありますが、通常は遠州流茶道では場所を変えることで、
それまでの雰囲気をガラッと変え、広間では
和やかで気楽な空気を楽しみます。
遠州公は濃茶の後に鎖の間を通って広間に移動し、
精神性を重んじた茶から草創期の書院の茶、
更に古典的な王朝文化を感じられる茶へと、
さながら茶の湯の時代絵巻のように楽しむ空間を
創り上げました。
広間の席に移りましたら、これまでの労を労い、
ご亭主にも薄茶をおすすめして皆で楽しみます。
水菓子などもいただき、芳名帳などがあればここで
記入し、全体で約4時間程度のお茶事もこれで終了です。
お茶事の翌日に再び亭主宅を訪問し
客は後礼といって
茶事のお礼をします。
亭主に感謝の意を伝えましよう。
12月21日(月)喜峰(きほう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二世大膳宗慶の道号「喜逢」
についてご紹介します。
大徳寺江月和尚に参禅していた大膳宗慶が
大灯国師の第三百六回の正当忌に当たる
寛永十九年(1642)十二月二十二日
江月和尚から、その忌日に逢うを喜ぶ
という意味で「喜逢」という道号が授与されました。
そして大灯国師の六百年の大遠忌には
11世の宗明宗匠がお献茶を
六百五十年には12世宗慶宗匠が
そして、昭和五十八年には13世となる宗実
家元が献茶をなされ、
三代に渡って大灯国師の尊い教えに献茶を
もって感謝の意を捧げられ、
二百六十年の時を越えて、逢うに喜ぶ日を
迎えられたのでした。
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