遠州一行は、夜明け前から舞坂の里を出発し、しらじらと暁が明ける頃に浜松を通過しています。天龍川にさしかかり、いけだの舟渡しにかかります。冷たく寒い風が吹き、「かぜさむしいそぎいけだの舟渡」と狂歌をよんでいます。1000年も前から続いていた天竜川・池田の渡し。徳川家康が池田の渡船衆に渡船の運営権が保証されてから、江戸時代を通じて交通を一手にになってきました。
掛川につくと、かねてより親交のあった城主の出迎えをうけてしばらく語り合っています。
この日記の書かれた年(1642)の掛川城主は本田忠義(これまで松平定行とされていましたが、改めます。)「家康に過ぎたるものが二つあり…」と歌われた本田忠勝の孫にあたり、遠州公の23歳下になります。
十三日
浜松の里を過ぎると ほのぼのと日が明けてきた。ここはどこかと供の者に問うと、池田の渡しですという。さる者が「かぜさむしいそぎいけだの舟わたし」とおもしろいことを言っている。それを聞いて、またある人が「もちあたためて酒うれるやと」続けるよりも早く、下人たちがもちを食い酒を飲んでいる姿は面白い。
舟を越えて、見付の里を過ぎる。行き先は遠江掛川というところ。ここの城主が宿を出でてお待ちくださっていた。そこに立ち寄ってしばらくとどまり、お暇して日坂の宿に一泊する。
ここはさよの中山のふもとである。山から吹きおろす風で、時雨の雲も吹きはらわれる。明るく冴えわたる月に、誘われるようにこの里をでる。
12日
なんという山かと問うても、霧が立ち込めどこともわからず、言葉もない。
吉田の城主は古くからの知り合いなので、手紙を送る。二かわの里に寄って白須賀の里で休憩し、さらに新居の渡し船を経て前坂という場所に一泊。この入海は浜名の橋に続くところである。古歌にも
かぜわたる 濱なの橋の ゆふしほに
さされてのぼる あまのつりふね
と歌われている。ふるさとを思い出し、さしてうまくもない歌を詠んでみようという気分になった。俄に風が激しくなり、雷もひどくなった。海面が光り、波の音が枕を動かし、時雨は旅の床をひたひたと迫ってくる心地がする。伴っている童共が怖がって騒がしく、ここはどこなの?などと眠れずに騒いでいる。風はなおも激しいが、時雨の中浮かぶ雲を吹き払って月の光が冴えわたっている。
11日
熱田を夜深くに出発。鳴海にはところどころに干潟が残り、海面に月の映る様子は、「田毎の月」のように美しく思われた。けれども調子が悪いので駕籠にのる。うとうとと夢を見ているうちに尾張のさかい河を渡って夢からも覚める。しばし休憩して三河の国の池鯉鮒(ちりう)というところに到着した。しばし休んでから、岡崎を過ぎて藤川に到着。此処を夜更けに出発し二村へ。
「上りの記」では、当時21歳の徳川義直に手厚いもてなしを受けた様子が日記に記されていました。この21年後の「下りの記」でも義直公の名が登場しています。1600年生まれの義直公は名古屋城の完成の際に御母堂と共に城に入り、御三家尾張徳川家の初代となります。
父家康公の遺徳を偲び、儒教を奨励し、名君とうたわれていました。家康の孫にあたる年の差四歳の家光とは時折、衝突したようです。この「下りの記」では義直公の母が一年前に亡くなり、江戸から帰り法要を済ませ、その喪に服していることが、宿の主から語られています。
〇桑名城主
桑名の里に到着した遠州を桑名城主が出迎えています。この年の桑名城主はこれまで本田忠政とされてきましたが、松平定綱と改めます。「月刊遠州」令和3年6月号でも松平定綱が紹介されており、定綱にあてた遠州の消息などから定綱と遠州の交友があったことがわかります。
定綱は、徳川家康の異父弟 松平定勝の3男で、1635年から五万石の加増を受けて、大垣藩から桑名藩にはいっています。1万石からスタートした定綱は、加増を希(こいねが)って11万石にまでなりますが、それには改易された福島正則の家臣を受け入れるためだったという話が語られています。定綱は同時代の文化人として知られた遠州をはじめ、木下長嘯子や林羅山らと交流がありました。遠州流が松平家の茶として代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。定綱と遠州の交友から、遠州流が松平家の茶として代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。定信自身は遠州流を本にしたお家流を開いたという記録が残っています。
三重県桑名といえば、蛤の名産地です。揖斐(いび)川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込み、川の水と伊勢湾の水が混じり合って栄養豊富な水域となるため、濃厚な旨味を持つ美味しい蛤が育ちます。かつては殻付きの枯れた松葉や松笠を燃やしながら、蛤を焼いたようです。この焼き蛤は名物として、伊勢参りに訪れた人々から全国にその名が知れ渡ったと言われています。この桑名の地名と蛤を合わせて「その手は桑名の焼き蛤」という洒落言葉が、江戸時代にはすでに使われていました。やじさんきたさんの珍道中『東海道中膝栗毛』のなかでも、二人が桑名でこの焼き蛤を肴に酒を楽しんでいる様子が描かれています。ちなみに、蛤の旬は春先のようですが、桑名のはまぐりの旬は初夏から夏場の8月頃にかけて、美味しい時期です。
十日 暁の頃に出発し、桑名の里に着く。城主(松平定綱)の出迎えを受けて、しばらく休息し、語らう。船着場から船頭の声がして
「潮が満ちた!追い風だ!」
というのを聞いて、申の上刻(17時前頃)、城主に大急ぎで暇乞いをして船に乗る。順風に帆を引き、船のゆく事飛ぶ鳥のごときはやさである。ある家の若者が詠んだ歌
ふねにのる 人の齢も追い風に
いそげば申の おはりにぞつく
熱田の宿の主が出迎えて物語などしながら共に宿に向かい到着。徳川義直公は大樹のごとき御慈非篤く、世間の評判は言うまでもない。御母堂は宗応院と号されていらっしゃる。去る1614年の9月10日に亡くなられた。ちょうど一周忌今日、法要を営まれるために武蔵よりこの国にお帰りになって物忌のお籠りになっていらっしゃると宿の主。このことをお伝えして帰りますとのこと。
つねならぬ 世のならひこそ かなしけれ
玉のうてなの 住いなれども
このように思いながら宿に到着すると、時は丑の刻、真夜中になっていた。
関の里に到着した際には、供の者の歌として風邪の咳と関の里のせき、亀山の里と鼻をかめとをかけて、
風ふけば みなかち人はせきいでて
ゆくゆく鼻を 亀山のさと
と狂歌を詠んで笑い興じたとあり、旅情をなぐさめています。早朝に水口の宿から出発し、約41キロ弱の道のりを進み、庄野の里に到着。日の短い頃ですから、なるべく先を急ぐために足早に進んでいます。関宿には、参勤交代や伊勢参りの人々でにぎわった町並みが残されていて、当時の人々の暮らしが伺えます。
まだ日も昇らぬうちから宿を発ち、鈴鹿山で休憩する遠州公一行。この日の日記では、出発の際にいただいた江月和尚の手紙を読み、その心遣いに涙を流す遠州公の様子が記されています。長い旅路へ向かう遠州公を気遣った江月和尚が送った偈文
莫忘風流旧同友 花時洛下約遭逢
(わするなかれふうりゅうきゅうどうゆう
はなのときらっかにそうほうをやくす)
には、風流の心を一日としてわすれることなく、今日まで生きながらえてきた私たちであるから、また必ず桜の花が咲くような風流の時には、また京都で逢うことができるでしょう。お互いに元気でその時を楽しみにしています。という意味が込められています。
この時江月和尚69歳、遠州公64歳。当時60歳を超えることは大変な長寿であったので生涯の友ともいえる二人の交友の深さがこの偈文からも偲ばれます。遠州公も鈴鹿の神前で、また来年の桜の咲く頃、お目にかかりたいと願います。玉の緒(命)の少しでも長からんことを
祈るばかりです。と歌を贈ります。残念ながら、遠州公が江戸に出府している翌年の11月1日に70歳で入寂される江月和尚。再び会うことは叶いませんでした。