高取焼の歴史
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山を月俸七十人扶持、寺社格という高禄で迎え、直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。八山は日本で高取八蔵と名乗ります。この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて隣あった場所に位置します。その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に小石原村鼓釜床に開窯。この地が山奥で殿様がお越しになるには難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。
高取焼の特徴
高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた八山の試行錯誤の時期と思われます。内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって続いていたと考えられています。)主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」様式がほぼ完成します。
高取焼と小堀遠州
高取焼は遠州公の指導を受けた窯の一つとして挙げられます。これは藩主黒田忠之の茶の湯への傾倒のみならず、茶の湯の持つ政治的価値と、自国の高取焼の名を高めることが御家の存続に有効であるとの考えから、当時の茶の湯の第一人者であった遠州公に指導を仰いだと考えられます。忠之公は焼きあがった高取茶入を相当数遠州公の元へ送り、その監修を依頼しています。そして遠州公は上中下などの格付けと、特に良いものについては蓋袋を誂え、よそへ進物として使えるかどうかなどの助言も言い添えています。その中でも「横嶽」はもっともよい仕上がりで、以前に焼かれた「秋の夜」「染川」より優れているので、割捨てなさいとまで忠之宛ての書状に記しています。この「横嶽」についての書状が送られているのが、正保三年。翌正保四年(1647)2月6日遠州公は亡くなっています。遠州公没年の間際に遠州高取が様式的に完成の域に達したと考えられます。
薩摩焼の歴史
薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529~1598)で朝鮮出兵した薩摩の島津義弘が80人余りの朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。陶工を乗せた三隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着し、それぞれの場所で窯が築かれたといわれています。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼、種子島系などに分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。
薩摩焼の特徴
渋い趣の器があるかと思えば、華やかな金襴手や庶民ための民芸などもあり、多様なスタイルの焼き物が焼かれてきた薩摩焼。薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。
薩摩焼に刻まれた記憶
司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。
薩摩焼と小堀遠州
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
志戸呂利陶窯の青嶋利陶さんのお話を伺います。
青嶋さんはいつお会いしても穏やかで、ご一緒する時はほっと空気が和やかになるような優しい雰囲気をお持ちの方です。青嶋さんはいつ頃から作陶をはじめられたのですか?
青嶋さん:父親の実家が静岡市で賎機焼という焼き物を家業としていたのでそこで27年前に習い初めました。その3年後に本多利陶先生に弟子入りして志戸呂焼をはじめました。
遠州公の指導のあった志戸呂で、ご先代宗慶宗匠や林屋晴三先生の指導もあり本多利陶先生が平成3年に金谷の地に利陶窯を作られたのですよね。遠州公が東海道の往来で、花器の指導をしたという話を聞いたことがありますが、その指導を受けた作品は残っているのでしょうか?
青嶋さん:当時大名が直接作陶の指導をするという事はあり得ないと思われるので花器の話は伝説的なものだと思います。

遠州公の時代から現在まで、志戸呂焼は瀟洒な茶陶を生み出しています。青嶋さんも宗実御家元のご指導を受けて遠州好みの作品を制作されていますね。御家元のご指導や他の作陶と違う点について教えてください。
青嶋さん:御家元のところに伺うと古いものをよく拝見させていただく機会があり、部分的に形や細工を変えてみる等の細かい点もご指導をいただけるのでとてもわかりやすく勉強になります。志戸呂焼は渋めの釉薬が多いので、遠州好みの端正な形や薄造りを心掛けて茶道具以外にも取り入れています。
利陶窯は志戸呂で唯一の登り窯と伺いました。登り窯の大変な点を教えてください。
青嶋さん:まずは燃料の赤松を確保することが難しくなってきました。利陶窯の周辺には無いので山梨県や長野県から運んで来ます。
赤松を燃料に焼かれているのですか。
青嶋さん:赤松は松やにが多く見られるように、樹脂が多いので火足が長く温度が上昇しやすいために焼き物ではよく使われています。杉や檜でも焼いた事はありますが、時間がかかるうえに作品の発色がよくありません。赤松は樹脂が多いためか煤(すす)が多く燻された感じで色に深みが出るように思います。2日かけて500点程の作品を焼くので登り窯を焼くのは年1~2回です。500点焼いても壊れるものが多いので完成品は僅かです。
作品が出来上がるまでには大変な苦労があるのですね。本日はありがとうございました。
志戸呂焼の歴史
島田市金谷に位置する志戸呂窯の歴史は古く十二世紀後半の平安時代には施釉をしない
山茶碗などがつくられました。その後は一時途絶え200年ほどの時を経ます。瀬戸から美濃へ陶業の中心地が移っていった時代を俗に「瀬戸離散」と呼んだりしますが、この時期に金谷にも陶工が移り住んだとされ志戸呂も復興。古瀬戸に似た作品がつくられました。
その志戸呂の全盛も平和な時代の到来と本家の瀬戸が力を盛り返し、15年ほどで終わりをつげます。天正十年(1582)には駿河国を領有した徳川家康公が美濃の陶工加藤庄右衛門影忠を招いたり、天正十六年(1588)には陶業差し許の朱印状を与えて優遇し、志戸呂の窯を奨励しました。また、尾張瀬戸地方の陶工の移住によって、志戸呂焼の生産が本格的に行なわれたと考えられています。享保年頃より「志戸呂」或は「質侶」の印を用いるようになりました。
志戸呂焼の特徴
現在も静岡の伝統工芸品に指定されている志戸呂焼の特色は、主要製造地域で採れる粘土が鉄分の多い土のため、茶褐色の地肌に黄色味をおびた渋味のあるものと、深みのあるあめ釉です。釉薬には主要製造地域で採取される、「丹石」(にいし)と呼ばれる鉄分を多く含む赤い石が使われ、これも志戸呂焼の大きな特徴となっています。また、土質は硬く焼き締まり湿気を嫌う茶壷に最適であると重用され、献上茶の茶壷に使われ、志戸呂焼の茶壺は将軍家の代々の献上品とされてきました。
志戸呂焼と小堀遠州
寛永年間(1624-1643)に小堀遠州公が茶器製作の指導をされ、優れた作品をつくりだしました。加藤庄右衛門から名を五郎左衛門に改めた初代の弟子が五郎左衛門を襲名してその仕事を
担当したようです。しかしながら明らかに遠州好を類推できる茶入及び茶碗は数が多いとはいえません。その中で、茶入「初桜」はいかにも遠州の好みを投影した作品といえます。志戸呂独特の雰囲気を表す渇釉と濁黄色を交えた釉薬。そしてすっきりとした肩の稜線と腰の柔らかな曲線。松平備前守の箱書
宿からや 春の心もいそくらむ
ほかにまたみぬ 初さくらかな
が記されています。もう一つ、大正名器鑑所載の「口廣」茶入には
この壷を 何とか人はとうとうみ
志戸呂もとろの茶入なるらむ
という歌を松平不昧が箱に書付けています。
陶工・尊楷
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は上野焼の開祖・尊楷についてご紹介します。
三斉に従い豊前小倉入りした尊楷は、
移住した地の名をとって上野喜蔵高国と改名し、
十五石五人扶持を拝領します。
後に細川家の移封に従い、長男と三男を伴って
肥後八代に移って高田焼を創始しました。
この時、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門を残し、
上野焼を後継させます。
尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると自らも
扶持を返上して出家し宗清と名乗り、
承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じました。
熊本県八代市の上野喜蔵の墓が今も残っています。
当時の高僧である清巌宗渭の箱書きを残す
喜蔵作の貴重な八代茶碗・銘「ねざめ」が出光美術館に
所蔵されています。
史料的に喜蔵作と確定できるのはこの茶碗のみと言われています・
上野焼のいま
ご機嫌よろしゅうございます。
細川家から小笠原家へと藩主が変わって以後も
上野焼は藩窯として幕末まで庇護されていきました。
江戸の後期には楽焼の手法を学び、
また現在の上野の代名詞となっている銅を含んだ緑青や、
三彩紫などの装飾性も高まり、作品を特徴づけました。
しかし明治維新後の廃藩置県により
御用窯としての使命を終え、上野焼は一時途絶えます。
明治35年に再興して以後も、苦しい時代が続きますが、
行政の支援を受けつつ上野焼に挑む陶芸家が次第に増え、
現在では二十軒を超える窯元が点在しています。
上野焼の食器類は、古来から毒を消し
中風になりにくくなると言われてきました。
また、酒の風味を良くし、飲食物の腐敗を
防ぐとも言い伝えられています。
上野焼の特徴と遠州好
ご機嫌よろしゅうございます。
細川忠興は千利休の弟子の中でも「侘茶」
の忠実な継承者でした。
その流れを受けて焼き締め調の施釉や
直線的な造形にみられる道具の選び方にも
遊びを最小限度におさえた武人としての
「侘茶」がうかがえます。
また同時期にお茶堂として招かれた千道安の
指導も考えられます。尊楷の作は素朴で重厚であり、
朝鮮唐津や斑唐津、古高取に似ています。
そしてその野趣溢れる大胆な作風が時の流れとともに
釉の変遷を重ねていき、次第に豊かな装飾の美しさを
加えていきます。
遠州が指導した記録はありませんが、
古来より遠州好みの窯の一つとして数えられています。
小笠原家に代々伝わる道具には土見せの瀟洒な瓢箪茶入が伝わり、
他にも権十郎蓬露の「あがのやき 瓢箪」と箱書きのつく
茶入などがつたわって「綺麗さび」の好みの影響がうかがえます。
〇上野焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
今月は九州の焼き物、上野焼についての
ご紹介をいたします。漢字だけみると
「うえの」?と読みたくなりますが
「あがの」と読みます。
上野焼は利休の高弟子で知られる細川忠興(三斉)が、
関ヶ原の戦いの後に豊前藩主となり、
慶長7年(1602年)に朝鮮出兵で渡来していた
李朝陶工の尊楷を招き、陶土に恵まれた上野の地
(釜の口窯)で窯を築いたのが
始まりとされています。
細川家が転封を命じられ尊楷も共に熊本へ移って
以後も尊楷の妻や孫が窯を守り、
小笠原家歴代藩主が愛用した藩窯として栄えました。
昭和58年には国(通産大臣)の伝統的工芸品の指定を受け、
現在は20以上の窯元が上野地区などに点在しています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は瀬戸焼の始まる前のお話を。
日本の焼き物の歴史は土器に始まります。
今から一万二千年前あるいはもっと前から
縄文土器が作られていました。
それから弥生土器、土師器、更に五世紀前半には
大陸の影響も受けて須恵器といった
新しい焼き物が各地で生まれていきました。
七世紀には三彩と呼ばれる緑釉陶器、
九世紀から十一世紀頃には灰釉陶器が生産されます。
灰釉陶器は自然の草木灰を原料とした高火度釉を
施した焼き物。このような焼き物の次に無釉の焼き物
「山茶碗」へと生産が移行していきます。 山茶碗は猿投山など生産窯が多くある丘陵地で
大量に拾われることからの俗称です。
瀬戸では釉薬のかからない山茶碗から、13世紀あたりに
再び施釉の焼き物が生まれ、いわゆる「古瀬戸」へと
つながっていきます。
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉水」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。