7月 27日 (月)清泉流石上
(せいせんせきじょうをながるる)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は字を見るだけで爽やかな
気持ちになるような一行をご紹介します。
清泉石上流
清々しい水が石の上を流れ、
日の光を浴びてキラキラと反射する
そんな風景が目に浮かぶようです。
前にはこんな詩がついています。
名月松間照
清泉石上流
明るい月の光が、松の合間からキラキラと光っている。
この詩は唐の王維作。
一点の曇りのない爽やかな悟りの境地を
山中の風景に託しているという
解釈もあります。
映画「父は家元」でも紹介されました
青山のオラクルのお茶室、聚想庵の大床にかかっている
宗実お家元筆の掛け物です
7月 22日(水)遠州流茶道の点法
「 大板(おおいた)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は大板についてご紹介します。
大板は台子の地板を半裁した寸法で
一尺四寸四方(約42センチ)の板です。
小板ではなく、棚物と同様と考え、
柄杓蓋置を飾ります。
暑さの厳しいこの季節は
風炉と釜が一体になっている切合せ(きりあわせ)が、
火気を外にださないため
よく用いられます。
特に盛夏の時期にはより小ぶりな切合が
用いられることがあり、
この切合せを大板にのせて使用します。
先述のとおり、柄杓蓋置は大板に飾り
水指は細めのものを使用します。
また風炉の位置が通常より体に近いため
柄杓の柄も風炉用より短い合柄杓(あいびしゃく)
を使用します。
7月 20日 (月) 鵜飼(うかい)
ご機嫌よろしゅうございます。
日々続く夏の暑さの中、日本人は様々な楽しみを
見つけ、涼をとる工夫をしてきました。
今日はそんな夏の楽しみの一つ
「鵜飼」についてご紹介します。
鵜飼という漁法で捕獲する「川狩(かわがり)」は
長良川が有名ですが、古くは日本各地で行われてきました。
古来から日本の伝統漁法として守られ、
現在でも夏の風物詩として親しまれています。
夏以外は鯉や鮒などをを中心に昼間漁師が
川に入り、鵜をあやつって魚をとっていましたが
捕獲量も低く、次第に夏の夜に鵜匠が鵜を遣う
技術を楽しむ鑑賞用の遊猟となっていきました。
遠州公も、伏見奉行屋敷の傍を流れる宇治川で
鵜飼の鑑賞を楽しんだことがわかる書状が
残っています。
七月十九日付の五十嵐宗林に宛てた書状には
昨日もお会いしましたが、今日の宇治川の
鵜飼へお招きし、夕食を共にしてゆっくり
語りたい…としたためています。
この書状の宛先となる五十嵐宗林は
生没年も職業も不明な人物ですが、晩年の遠州公の
茶会記には度々登場する人物で、この鵜飼の
文を詠んでも、相当に深い親交があった
ことが伝わってきます。
7月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「宗実家元好茶箱」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き茶箱についてご紹介します。
宗実家元が好まれた茶箱「青海茶箱」
青海は、どこまでも広がる大海原に絶えず繰り返される
穏やかな波を青海波と呼ぶことに因み、この茶箱を手にして、いつでも、
どこでも、お茶を一服頂けるように、
「茶の湯を通して心を豊かに」という宗実家元のモットーを表現した銘名です。
正面縁が爪紅になっており、深い緑に紅がよく映えます。
蓋には立礼・天籟と同様、ENSHUの字を
デザインしています。
正面から茶碗・茶筅・茶巾等全ての道具が引き出せる
仕組みになっています。
【告知】
7月 13日(月)お盆の由来
ご機嫌よろしゅうございます。
お盆には7月に行う地域と8月に行う地域が
あるというお話は昨年ご紹介しました。
お盆には先祖の霊があの世から家族の元に帰ってきて、
再びあの世に帰っていく、という日本古来の祖霊信仰と
仏教が結びついた行事です。
正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)といい
盂蘭盆とは、「逆さまに吊るされたような苦しみ」
という意味の仏教用語です。
この苦しみから先祖の霊を救うため
供物を備え、供養します。
このお盆にまつわるこんなお話があります。
お釈迦様の十大弟子の一人、木蓮(もくれん)
の亡くなった母が地獄に落ちて苦しんでいました。
木蓮は母を救うにはどうしたらよいか、
お釈迦様に相談し、教えを請いました。
そして7月15日に手厚い供養をし、
木蓮の母親は救われたのだそうです。
この木蓮の伝説がお盆の由来と言われています。
7月 10日 (金) 納豆の日
ご機嫌よろしゅうございます。
7月10日は納豆の日とされています。
今日は納豆と茶の湯についてご紹介します。
納豆は鎌倉時代、動物性たんぱく質を
摂ることのできなかった禅宗の僧侶が、
精進料理として、取り入れたもの
といわれています。
江戸時代には納豆は早朝に行商が
売り歩きにきました。
庶民にも広く普及していたようです。
この頃まではまだ醤油も普及しておらず
納豆は調味料的な利用をされ、
汁にすることが多かったようです。
茶の湯に関して言えば
千利休最晩年の天正十八(1590)年から
十九年にかけての100回に及ぶ茶会記を記す
『利休百会記』の中で
天正十八年に7回、茶事の会席において
「納豆汁」を出した記録があります。
秀吉や細川幽斎などの武将にも振舞っています。
天正18年は利休が自刃する前年ですので、
利休の茶の湯も確立された頃
納豆はその精神に叶う食事として会席に利用した
のでしょうか。
7月8日 (水)遠州流茶道の点法
茶箱(ちゃばこ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶箱についてご紹介します。
茶箱は古くから旅の際の持ち歩きように
つくられたもので、
茶弁当などとも称されていました。
それぞれの茶人の好みで茶箱が作られました。
遠州公の好みの茶箱には
天の橋立の松の美しい生節の戸に使用した
「橋立茶箱」というものがあります。
宗家道場ではこの橋立茶箱の写しを用いて
お稽古しています。
正面と右側面にそれぞれ菓子器・茶碗茶杓
茶筅・茶器・茶巾が収納され、
シンプルな形ながら、使いやすく遠州公の
心配りが感じられる茶箱です。
7月 6日(月) 長生殿(ちょうせいでん)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年ご紹介しました日本三大銘菓のうちの
今日は 日本三大銘菓の一つ、長生殿について
ご紹介します。
長生殿の生まれた金沢は前田家が遠州公の指導を受け、
熱心に取り組んだこともあり、茶道が大変に盛んな土地です。
そしてそれに伴い、和菓子の文化も発達しました。
この長生殿のように、茶道の発展とともに、
日本の各地で茶菓子としての
伝統的な銘菓が誕生していきます。
今と異なり、流通の発展していなかった時代には
大変に希少価値のあるものでした。
銘菓「長生殿」は、寛永年間(17世紀前半)
森下屋八左衛門が前田利常の創意により、
遠州公の書いた「長生殿」
という文字を墨型の落雁にした
ことがはじまりと言われています。
この「長生殿」の名は、唐の白居易「長恨歌」の末章
七月七日長生殿 夜半無人私語時
より、唐玄宗と楊貴妃が愛を語りあった場所である
長生殿から由来しているといわれています。
そしてこの詩、後には
在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝
と続き、
天上にあっては、鳥の両翼となり
地上にあっては、連理の枝となりましょう
と永遠の愛を誓う歌が続きます。
遠州公はどんないきさつでこの長生殿という字を
書かれ、利常公がこの菓子をつくられたのか
明日の七夕の日に、そんなことに想いを巡らせながら
このお菓子を頂きたいと思います。
遠州公が旅をした様子を書き綴った「道の記」当時の旅の様子が詳しく読み取れ、大変に興味深いのですが、その中には各地の名物も多数登場します。そのうちの一つ「十団子」をご紹介します。
九月二十六日
江戸を出発して五日目。
現在の静岡のあたり、物語にも多く登場する宇津谷峠に差し掛かった時その麓の里で、名物の「たうだんご」に出会す。
遠州公ははじめ「唐団子」と聞き間違い、中国から渡ってきた珍しい団子かと思っていたところそうではなく、霰のような白い餅を器に十ずつすくうので「十団子」なのだとのことでした。それでは実際掬わせよと遠州公が言うとお店の女房は杓子で自在に掬って見せたとあります。その様子が遠州公の旅情を慰め、時の経つのも忘れた様子です。
さて、遠州公の東海道旅日記には、もう一つ「上り」があります。こちらは、「下り」の書かれた四十三歳から二十一年後の六十四歳の折の様子が綴られており、二つ読み合わせると、その時の経過を感じることができます。
7月 1日(水)遠州流茶道の点法
旅箪笥(たびだんす)
ご機嫌よろしゅうございます。
夏の暑い時期、正午のお茶事などが
行われることは少ないようです。
そのような暑い時期にも気軽に茶の湯が楽しめるよう
宗家の稽古場では、旅箪笥や、茶箱といった
野点や外出先でのお茶に最適なお点法の稽古をしています。
旅箪笥は、その名前の通り旅先にも持ち歩ける
移動用に考案されたものです。
千利休が豊臣秀吉の小田原の陣に従った際に
考案したといわれています。
茶箱とは異なり、柄杓が入るようになっており
野点で手取り釜に合わせたり
また携帯用としてだけでなく、小ぶりな風炉釜で、
楽しむ夏の気軽なお茶にもよく合います。
差し蓋となっている戸の裏には、短冊が挟めるように
なっており、時候の歌などを入れて、席中で
楽しむことができます。