10月 7日(金)能と茶の湯
「松風(まつかぜ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
明日8日は二十四節気の寒露です。
野草には冷たい霜が宿り、山も色づき始める頃
秋風と共に、どことなく物寂しさも感じられます。
さて秋の夕暮れを舞台にした曲に「松風(まつかぜ」
があります。
西国に向かう僧が、途中須磨の浦で在原行平の
愛した松風・村雨に縁の松をみつけます。
懇ろに弔い、藻塩小屋で一夜を明かそうと
していると、海女の姉妹が汐汲車を引いて小屋に
戻ってきます。
そして自分たちが松風と村雨であると名乗り、
行平と共に過ごした三年の思い出や、都へ戻った
行平が亡くなったことを語り、形見の烏帽子狩衣を
身につけて舞い、村雨と共に妄執の苦しみを語り
僧に回向を頼みます。
やがて夜が明けると二人の姿は消えており
松風の音だけが響いているのでした。
9月30日(金)能と茶の湯
「比丘貞(びくさだ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は狂言「比丘貞」をご紹介します。
一人息子の元服親になってほしいと頼まれた老尼が、
自分の通称の「庵」をとって庵太郎(あんだろう)
と名付けます。
名のりも自分の比丘と、相手の家の通り字である
「貞」を合わせて比丘貞とつけ、祝言の舞を舞う
というあらすじです。
武家階級では元服の際、字アザナと諱イミナのふたつを名付ける
習いがありました。この格式のある名付けがゆるみ、
いわば「ごっこ」に近いようになった様子が描かれています。
老尼は烏帽子親を頼まれて悦びますが、
与えるべき諱をそもそも持っていません。
そのため比丘などとつけているところが
面白いところ。
この「比丘貞」の面に姿が似ていることから
遠州公が銘をつけたのが
瀬戸真中古窯茶入「比丘貞」です。
茶入の胴の締まった姿が、確かにユーモラスな
面の顔を想起させます。
遠州公の所持の後、数人の所有者の手を経て松平不昧が所持しました。
9月16日(金)能と茶の湯
「姥捨(うばすて)」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨晩は中秋の名月、皆さんはご覧に
なれましたでしょうか?
今日はその中秋の名月にちなんだ
老女物の演目「姥捨」をご紹介します。
ある日都の男が、中秋の名月を眺めようと、
名所である更科の姨捨山を訪れます。
夕方、眺めを楽しむ男の前に女が現れます。
男の問いかけに対し、
昔この山に捨てられた老女が
我が心慰めかねて更科や
姨捨山に照る月を見て
と詠んだことを教え、
自分もここで捨てられた者だ、
今夜は月の出と共に現れて夜遊を慰めようと
言って姿を消します。
やがて女は老女の霊として現れ、月を愛で、
仏説を語り、昔を懐かしみ舞を舞います。
夜が明けて都の男が帰ると、またただ独り
山中に残されるのでした。
9月12日 (月)中秋の名月
ご機嫌よろしゅうございます。
秋の夜長
月を眺めるのにちょうど良い季節となりました。
今年の中秋の名月(十五夜)は、9月15日。
しかし、月の満ち欠けはきっちり1日単位
ではないので、中秋の名月(十五夜)=満月
とは限りません。
十五夜が満月だったのは最近でも2013年。
次回は2021年だそうです。
昨年は、中秋の名月と満月の日が1日遅れの年
でしたが、今年は9月17日が満月となります。
つまり中秋の名月から2日後が満月というわけです。
とはいえほとんどまん丸のお月様を中秋の名月で
見る事ができそうですね。
9月9日(金)能と茶の湯
「三井寺」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「三井寺」をご紹介しました。
三井の名鐘の縁によって再び巡り会うこと
が叶った母子。
離ればなれになった親子の心情を描く上で
琵琶湖上に輝く名月と湖面に響く鐘の音を配し
非常に美しい謡です。
また三井寺は近江八景「三井の晩鐘」でも有名です。
この三井寺にちなんだ茶の湯道具として
挙げられるのが利休作竹一重切花入「園城寺」です。
三井寺は通称で、正式には長等山園城寺といいます。
天正十八年の小田原攻めに同行した利休が、
伊豆韮山の竹で作った3本の花入の1つとして、竹の正面に樋割れがあることから
園城寺の鐘のひび割れに通じて銘を付けられたといわれています。
これを少庵の土産として持ち帰り
後に松平不昧公の所持となり現在は
東京国立博物館の収蔵品となっています。
【告知】
9月 2日(金) 能と 茶の湯
「三井寺」
ご機嫌よろしゅうございます。
長月の異名を持つ9月に入りました。
秋の夜長に月を見上げる機会も増えます。
さて、今日は中秋の名月にちなんだお能
「三井寺」をご紹介します。
三井寺では、八月十五日(旧暦)を迎え、
寺の僧たちは月を見ようと待ち構えています。
中秋の名月を鑑賞していると、物狂いの女が現われます。
その女は行方不明となった我が子・千満を探す
旅を続けていたのでした。
京都清水寺で見た霊夢によって三井寺を目指し、
女人禁制の寺に入り込みます。
女は三井寺の鐘の来歴を語り、鐘を撞き始めます。
三井寺の僧の弟子となっていた千満は、
師僧を通じて女の出身地を聞き、声をかけます。
女と千満は互いに母子だと分かり、涙の対面
二人は故郷へ連れ立って帰っていくのでした。
8月26日(金) 能と茶の湯
「止動方角」
ご機嫌よろしゅうございます。
連日残暑の厳しい日が続きます。
今日は茶の湯が登場する狂言をご紹介します。
「止動方角」
題名を聞いただけでは、なんのことやらさっぱり
わかりません。これはお話に登場する馬を
沈めるための呪文の言葉の一部からとっています。
ではあらすじをご紹介しましょう。
昨今流行している茶の湯。
これをやりたいが道具を何一つ持っていない主人
ある日太郎冠者を呼び出し、裕福な伯父の家へ行って
茶道具と、格好をつけるため馬と太刀を
借りてこいと仰せ付けます。
「茶も持たずに茶比べなどせいでもよいのに」
愚痴をこぼしながら、しぶしぶ叔父のもとに
借りに行った太郎冠者。
そこで借りた馬は咳をすると暴れ、
「白蓮童子六万菩薩、鎮まり給え止動方角」
と唱えると鎮まると教えられます。
待ちかねた主人に叱られ、腹いせに咳をして
主人を落馬させるのでした。
馬は暴れながら橋掛かりの方へ走っていき、
二人して待て待てと追い掛けて退場します。
「茶をもたずに茶比べなどせいでもよいのに」
という太郎冠者の言葉からもわかるように
この狂言の作られた時代は、現在の茶の湯の
スタイルとは若干異なり「茶比べ」
つまり「闘茶」であったことがわかります。
8月19日(金) 能と茶の湯
「俊寛」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は、先週ご紹介しました能「俊寛」から
銘のついた茶碗をご紹介します。
黒楽「俊寛」は楽焼の初代、長次郎作の名碗です。
利休が薩摩在住の門人の所望により
長次郎の茶碗を三碗送ったところ、
この茶碗を除く二碗が送り返され、
一つ残されたことからこの銘が付けられたということで す。
箱裏にはこの伝えを踏まえた仙叟宗室の狂歌が、
また、この碗の箱蓋表のほぼ中央に利休筆
と伝えられる「俊寛」と書かれた紙が張られています。
遠州流では楽茶碗を使用しませんが、この俊寛は、先代
紅心宗匠も、当代宗実家元も長次郎作品の中で
一番好きな茶碗であるとおっしゃっています。
現在重要文化財に指定され、三井記念美術館が
所蔵しています。
ちなみに俊寛は願いむなしく三十七歳の若さで
島で亡くなります。現在でもお盆には俊寛を
弔う「俊寛の送り火」が焚かれています。
8月12日(金) 能と茶の湯
「俊寛(しゅんかん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
明日から旧歴のお盆の入りにあたります。
お盆の送り火で有名な大文字山の麓に鹿ケ谷があります。
この地にあった僧俊寛 の山荘で、後白河法皇の近臣により
平氏討伐の謀議が行われました。
今日はこの事件をえがいた「平家物語」の「足摺」の段
を題材にした能「俊寛」をご紹介します。
時は平家全盛の平安末期
平家打倒の陰謀を企てた罪科により、
俊寛は藤原成経、平康頼とともに、薩摩潟
(鹿児島県南方海上)の鬼界島に流されていました。
都では、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった
徳子の安産祈願のため大赦が行われ、鬼界が島の流人も
一部赦されることとなりました。
成経と康頼は、島内を熊野三社に見立てて祈りを
捧げて巡っていました。ある日、島巡りから戻るふたりを
出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と見立てて酌み交わします。
ちょうどそこに都の遣いが到着、恩赦の記された
書状を渡します。しかし成経が読み上げるとそこには、
俊寛の名前だけがなかったのです。
驚き嘆く俊寛
舟にすがりついて自分も乗せてほしいと
頼む俊寛を独り残し、舟は都へと戻っていくのでした。
8月 5日 (金)能と茶の湯
狂言「清水」
ご機嫌よろしゅうございます。
風炉の季節、涼を求めてこの時期に
行われる名水点、
茶の湯には美味しい水が欠かせません。
今日はこの名水にちなんだ狂言をご紹介します。
茶会を催すので、野中の清水へ汲みに行くように
主人に命じられた家来の太郎冠者。
面倒なので、七つ(午後4時)をすぎると、
あのあたりには鬼が出ると水汲みを断りますが、
主人は話を聞き入れず、家宝の桶を持たせて追い出します。
しぶしぶ出かけたものの
「野中の清水へ行くと鬼が出て、手桶を噛み
割ってしまったので逃げて帰った」
と報告する太郎冠者。
家宝の桶を惜しんだ主人はみずから清水へ向かいます。
先回りした冠者が鬼の面をかぶって脅し、
主人への不平不満を面の勢を借りてぶちまけます。
主人は一度は命乞いをして逃げ出しますが、
怪しみ戻ってきます。
冠者はもう一度鬼に扮して脅すものの、
今度は正体を見破られ、主人に追われて逃げて行くのでした。
野中の清水は名水として知られ、播磨国の印南野(いなみの)
現在の兵庫県、播磨平野の一部に湧き出ていたと言われます。