東海道旅日記 下りの記【06】 10月8日『近江八景』

2021-2-12 UP

湖を船ですすむ遠州一行。湖上からふと目をやれば、趣深い風景が広がっています。情趣を解さない、歌を詠まない供の者に、残念そうな遠州公でした。この近江湖東から八カ所の名所を、中国の「瀟湘八景」になぞらえて選んだものが近江八景です。
これまで、戦国時代から江戸時代にかけて選定されたといわれていましたが、近年では、「寛永の三筆」の一人近衛信尹が、琵琶湖湖畔の膳所城からその眺めを詠み選んだ歌が残されている資料が発見されました。近江の数ある名勝のなかから、瀟湘八景の情景を取り合わせて、膳所城からの眺望を和歌にして詠み、膳所城主に差し上げたという説が有力です。
江戸時代には日本の代表的な名所として多くの人に親しまれ、江戸後期浮世絵師の安藤広重の風景画により広く知られるようになりました。近衛信尹は公家の中でも最高位にある近衛家の中でも偉才人物で「寛永の三筆」数えられる能筆でありました。その養子にあたる信尋は、
やはり能書家で知られ、実は後水尾天皇の弟にあたる人物ですが、遠州公との手紙のやりとりが残っており、当代きっての文化人同士の交流が伺えます。

近衛信尹

2014-11-25 UP

11月 25日 近衛信尹

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸初期の公家・近衛信尹について
ご紹介したいと思います。

某人気コミックスで、豊徳合体を目指す織部が、
禁中で反徳川に燃える旗頭、前関白・近衛信尹を
「カリ」(今のカレー)でもてなすという
シーンが描かれていました。
この当時「カリ」が既にあったのかは謎ですが…

近衛信尹は関白や左大臣など歴任した重臣で、
後水尾天皇の生母の兄にあたります。

幼少時は武家との交流が深く、また織田信長に
可愛がられたこともあり公家社会に馴染めず
苦しみました。

朝鮮出兵の際、自らも朝鮮に向かおうとし
後陽成天皇の怒りを買い、薩摩に配流されるなど
波乱の多い人生だったようです。

若き日の松花堂昭乗が信尹に仕えていた時期もあります。
能書家として知られ、一派を形成し、近衞流、
または三藐院流と称されます。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」に数えられる人物です。

慶長19年(1614)11月25日に亡くなります。