本阿弥光悦が遠州の指導を受けて作ったといわれる茶碗「膳所光悦」。この茶碗は寛永十三年(1636)徳川三代将軍家光公を迎え、遠州公が品川林中に新しく完成した御茶屋披露のときに使用されたものです。半筒型をした本焼きの茶碗で、楽焼の柔らかい土で発揮された光悦の箆さばきが膳所の硬い土をもっても冴えている点は見事です。
本阿弥光悦は、遠州公の注文により遠州好みの茶陶器を多く制作しており、膳所の土を用いて作ったことからこの名前がつきました。将軍献茶の茶会に用いられた「膳所光悦茶碗」二碗で、遠州公ののち馬越恭平の蔵となったものとMOA美術館に所蔵されているものが伝来しています。
膳所焼の歴史
膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことからその指導を受け茶器に力を注ぎました。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。
膳所焼の特徴
この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用されていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。
膳所焼と小堀遠州
本阿弥光悦が遠州の指導を受けて作ったといわれる茶碗「膳所光悦」。この茶碗は寛永十三年(1636)徳川三代将軍家光公を迎え、遠州公が品川林中に新しく完成した御茶屋披露のときに使用されたものです。半筒型をした本焼きの茶碗で、楽焼の柔らかい土で発揮された光悦の箆さばきが膳所の硬い土をもっても冴えている点は見事です。
本阿弥光悦は、遠州公の注文により遠州好みの茶陶器を多く制作しており、膳所の土を用いて作ったことからこの名前がつきました。将軍献茶の茶会に用いられた「膳所光悦茶碗」二碗で、遠州公ののち馬越恭平の蔵となったものとMOA美術館に所蔵されているものが伝来しています。
信楽焼の歴史
信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。
信楽焼の特徴
信楽焼はその素朴さが好まれ、茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。信楽焼に使われる土は、琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
信楽焼は珠光の「心の文」に「ひせん物、しからき物」とあるように、珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が茶の湯で使われていたことがわかります。備前ともに信楽の水指の登用は早く、15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。
信楽焼と小堀遠州
信楽の焼き物も遠州公が指導したといわれている窯の一つです。遠州信楽は漉土を用い肉が薄く精巧を極めているといわれています。代表的なものに長辺二方に浅い切り込みをつけ、高台は三方に切り込みをつけた割高台風の筆洗型茶碗「花橘」という、切形と呼ばれる見本をもとに焼かれた茶碗があります。この茶碗は高取や志戸呂などにみられる形と同じで、平天目形の一部を押さえ込んだ姿であり、「前押せ」といわれています。遠州信楽の特徴である漉し土で作られたものの中でも、極めて薄く作成された作品です。 信楽の土の味わいをいかしつつ、綺麗さびの瀟洒な美意識が投影され、洗練された作品を生み出しました。
備前焼の歴史
備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。
備前焼の特徴
備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。
備前焼と小堀遠州
遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。
薩摩焼の歴史
薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529~1598)で朝鮮出兵した薩摩の島津義弘が80人余りの朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。陶工を乗せた三隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着し、それぞれの場所で窯が築かれたといわれています。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼、種子島系などに分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。
薩摩焼の特徴
渋い趣の器があるかと思えば、華やかな金襴手や庶民ための民芸などもあり、多様なスタイルの焼き物が焼かれてきた薩摩焼。薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。
薩摩焼に刻まれた記憶
司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。
薩摩焼と小堀遠州
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉水」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひの他に君がきませる
菅原道真公といえば梅の花。太宰府に左遷となった道真、その道真を追いかけて梅の木が飛んで行ったという「飛び梅伝説」。この故事から、「道真」と「梅」という結びつきが天神信仰の広まりと共に鎌倉中期以降に大衆に浸透します。また「梅」は文様としても多く描かれています。
さて、冒頭ご紹介しました梅の歌にちなんだ銘の茶入「宿の梅」があります。江戸時代初期、薩摩で焼かれたこの茶入は白地の下地が褐色釉のところどころから見え隠れしまるで梅のような景色を作っています。後藤三左衛門所持から「後藤」ともよばれ、遠州公が「拾遺集」の平兼盛の歌から命銘しました。
12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。
六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。
文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所で中世後期にはすでに町並が形成されていました。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、水口の地は徳川氏の直轄地となり、東海道の宿駅に指定され、徳川家康も度々この地を通行し、水口の寺院などに宿泊していたといいます。三代将軍徳川家光は京都への上洛に先立ち、寛永9年(1632)遠州公を作事奉行に任じて、上洛する際の将軍専用の宿館として、東海道の要衝の地である水口に豪華な本丸御殿を持つ城を築かせます。家光の威光を示すものであったため、遠州公は延べ10万人の大工を動員し、3年がかりで完成しました。将軍家の宿館ふさわしく数寄をこらしたものでその構造は二条城を小さくしたものでした。この御殿は徳川家光上洛の帰途に一度使われただけで、後に水口藩が成立、その居城となりました。寛永十年はこの水口城の他にも、仙洞御所泉水奉行伊庭御茶屋作事奉行、二条城本丸数寄屋作事奉行にあたり、多忙を極めていた時期です。遠州公はこの水口城の現場で直接指揮をとってました。
所在地 滋賀県甲賀市水口町本丸4−80
史跡 水口城跡