15日 早朝に出発し、府中を過ぎて清見が関にさしかかる。浪の音は閑で、月は山の端に残り、霧間にうかぶ三保の松原を見れば、広がる松原と海岸の見事なこと。
(清見が関の関ではないが)心を関とめるものはない。
月はまだ 残るきよみが せきの戸を
あけてももらん 三保の浦松
次第に夜が明けていく。由比の塩屋を過ぎる。まだ朝早いというのに、汐を汲む海女が所々に出で立っている。袖の濡れるのも厭わずに我先にと汲む様子を見て
かかるこそ うき身のわざと くむ塩に
ぬるるをいとふ あまのそでかは
と詠む。田子の浦に塩を焼く煙が立っている。
いまさらに われもおもひをするがなる
しほやく田子の 浦のけしきは
十三日
浜松の里を過ぎると ほのぼのと日が明けてきた。ここはどこかと供の者に問うと、池田の渡しですという。さる者が「かぜさむしいそぎいけだの舟わたし」とおもしろいことを言っている。それを聞いて、またある人が「もちあたためて酒うれるやと」続けるよりも早く、下人たちがもちを食い酒を飲んでいる姿は面白い。
舟を越えて、見付の里を過ぎる。行き先は遠江掛川というところ。ここの城主が宿を出でてお待ちくださっていた。そこに立ち寄ってしばらくとどまり、お暇して日坂の宿に一泊する。
ここはさよの中山のふもとである。山から吹きおろす風で、時雨の雲も吹きはらわれる。明るく冴えわたる月に、誘われるようにこの里をでる。
11日
熱田を夜深くに出発。鳴海にはところどころに干潟が残り、海面に月の映る様子は、「田毎の月」のように美しく思われた。けれども調子が悪いので駕籠にのる。うとうとと夢を見ているうちに尾張のさかい河を渡って夢からも覚める。しばし休憩して三河の国の池鯉鮒(ちりう)というところに到着した。しばし休んでから、岡崎を過ぎて藤川に到着。此処を夜更けに出発し二村へ。
関の里に到着した際には、供の者の歌として風邪の咳と関の里のせき、亀山の里と鼻をかめとをかけて、
風ふけば みなかち人はせきいでて
ゆくゆく鼻を 亀山のさと
と狂歌を詠んで笑い興じたとあり、旅情をなぐさめています。早朝に水口の宿から出発し、約41キロ弱の道のりを進み、庄野の里に到着。日の短い頃ですから、なるべく先を急ぐために足早に進んでいます。関宿には、参勤交代や伊勢参りの人々でにぎわった町並みが残されていて、当時の人々の暮らしが伺えます。
まだ日も昇らぬうちから宿を発ち、鈴鹿山で休憩する遠州公一行。この日の日記では、出発の際にいただいた江月和尚の手紙を読み、その心遣いに涙を流す遠州公の様子が記されています。長い旅路へ向かう遠州公を気遣った江月和尚が送った偈文
莫忘風流旧同友 花時洛下約遭逢
(わするなかれふうりゅうきゅうどうゆう
はなのときらっかにそうほうをやくす)
には、風流の心を一日としてわすれることなく、今日まで生きながらえてきた私たちであるから、また必ず桜の花が咲くような風流の時には、また京都で逢うことができるでしょう。お互いに元気でその時を楽しみにしています。という意味が込められています。
この時江月和尚69歳、遠州公64歳。当時60歳を超えることは大変な長寿であったので生涯の友ともいえる二人の交友の深さがこの偈文からも偲ばれます。遠州公も鈴鹿の神前で、また来年の桜の咲く頃、お目にかかりたいと願います。玉の緒(命)の少しでも長からんことを
祈るばかりです。と歌を贈ります。残念ながら、遠州公が江戸に出府している翌年の11月1日に70歳で入寂される江月和尚。再び会うことは叶いませんでした。
山の方へ眼をやると、そこだけが時雨が降っており、見過ごしがたい眺めだ。
出てゆく けふの別を おしといふ
けしきながらの 山の時雨は
と、独り言ちする。伴う人はいても、歌を詠む者ではないので、この山の景にさへ不満そうな顔でいるのも言葉こそださないが嘆かわしい心地でいると、舟は矢橋の浦に到着した。見送りに来てくれた人たちに、別れを告げて舟から上がり、此の里を出る。東の方角に向かえば鏡の山、おいその森も近い。この山も時雨れて曇っている。
心ありて くもる鏡の山ならん
老そのもりの かげやうつると
と、また独り言ちして進む。戌の刻(20時前後)水口の里に着く。ここにまで都より人が訪ねてきてくれていろいろと話をしている程に、その夜も更けていった。
10月8日江戸に向かうことになり江月和尚より餞別の志を一偈にして、手紙を添えてよこしてくださった。公儀の用が忙しく、手紙を開く暇もなく日も暮れ、伏見の里を朝も早くから出発し、関山を越えて内出の里に到着する。そこかしこから人が集まってきて、心せわしくあわただしくしているうちに時も過ぎていった。
瀬田の長橋を渡ろうとするが日が短いので、うち出の濱から渡し船に助けられて琵琶湖をすすむ。北を見れば焦がれてやまない滋賀の故郷がみえる。唐崎の松も懐かしく思われる。
ふるさとの 松としきかば旅衣
たちかへりこむ しがのうら浪
寛永19年10月に遠州公は江戸の飢饉対策奉行となっています。「公の事しげくに…」と記されていた背景にはこのお役目があったのでしょうか。この年、寛永の大飢饉がおこり全国的な飢饉にみまわれます。農民たちは作物の育たない田畑を手放し、身売りや江戸へ流入し、飢えに苦しむ人々であふれていました。その対応に追われていた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、畿内の農村掌握の第一人者であった遠州公も連日評定所にて協議を行いました。このとき、将軍に茶道指南を請われたともいわれ、この先4年間江戸にとどまることとなり、俗に「遠州4年詰め」と呼ばれています。この飢饉対策の対応のため動く幕閣や、江戸に参集していた各地の大名に遠州公の茶が広まるきっかけともなるのでした。
12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。
六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。
文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。