高取焼宗家13代 髙取八山インタビュー

2018-7-30 UP

『髙取の歴史や見どころを』、ということですので、少し話をさせていただきます。
髙取の開窯は関ヶ原の戦いと同じ慶長5年(1600年)でございます。もともとは豊前宇佐の城主であった黒田家ですから、その周辺でまず試験焼を繰り返していたのでしょう。黒田長政公の戦功によって、筑前国に国替えとなりその最初の窯である永満寺宅間窯で本格的に御用窯として創業を始めます。
初代・八山がいかなる人物であったのか、とても謎多き人物です。当初はまだ大変若いにもかかわらず士分として半礼(殿様に御目通りかなう身分)そして寺格、社格という身分まで与えられて黒田家に従い海を渡りました。そのルーツを探るには、当時、茶の湯道具として最も珍重された高麗茶碗と関係が深いということは、明らかなことでしょう。なかでも祭祀として生まれた器である井戸茶碗がそのルーツを探る上での要と思われます。しかし今日まで一点として大井戸の破片すら発見はされていません。それほど特別な謎多き器なのです。目跡から紐解いていきますと、その数はほとんどが4つで高取においてもそのすべては4つ目跡です。初代の義理の父親である井戸新九郎の作っていたものには3つ目跡もあります。朝鮮半島の南側特に海沿いの窯場ではそのほとんどが目跡は5つです。これは茶人が好んだ奇数を意識して作ったのでありましょう。
山側の加耶山周辺(黒田軍と加藤軍が進軍したルート)は4つか3つ目跡です。この地には八山里(パルサンリ)という地名も存在します。
義父は加藤軍にそして初代は黒田軍に従っておりますので、その共通したルートに初代のふるさとが存在していることでありましょう。
黒田軍は漢城(現在のソウル)までしか進軍しておりませんので、南側であることは明らかです。しかし加藤軍が捕えた会寧の陶工集団が義父とともに清正公の亡くなった後、黒田家に許され初代に合流します。この会寧では唯一白釉陶器(すすきなどの草灰・日本では藁白釉)が焼かれておりました。
その釉調などから初代は会寧の陶工なのではという学者がほとんどでした。初代が日本で窯を築いた場所は山間部にあり、土を求めてというよりふるさとに似た景観を
探したのではないかと感じます。そのようなことから初代は南出身山間部に育ち日本人の美意識を反映した器は作っていたわけではなく、特殊な器である祭器のみの陶工であったと思われます。祭器を作っていたからといって、陶工であったかどうかは不明ではありますが。日本人の美意識ということで高麗茶碗に関していくつか私の感じるままに申し上げますと例えば熊川(会寧)茶碗はもとは小ぶりな鉢のような形であった物を見て、茶碗として使用しやすい深さに作らせたのが真熊川茶碗であり、鏡を小さくしたり砂目跡をつけたりは皆お茶人の美意識でありましょう。呉器などにつく4つの指跡の釉薬の抜けなどは無造作の演出であり、粉引などの火間(釉抜け)や高台から突き出ていく玄悦のかんな削りなど同じ感性であり不足の美ということを意識した作りだと思われます。
数多くの目跡も景色であり、または注文主を明確にするための窯しるしであったのかもしれません。初代はこのような注文茶碗を作っていた窯場にはいなかったと思われます。話が全く違う方向に行ってしまいましたが、遠州高取の特徴についてかいつまんでお話をさせて頂きます。まずは高取と言えば茶入ですが、この地小石原鼓窯はお茶入窯とも呼ばれるほど多くの作品が作られました。高取初期の茶入はろくろから切り離す時の指跡を残しており、糸切も唐物切であったものが、遠州公の指導以後は指跡はきれいに削られ和物切となります。寸法も古瀬戸に比べると小ぶりとし、三寸を超えることがないようになります。口と糸切寸法を同寸法とすることでバランスがよくなります。織部時代の好みは下張(竹形)のようなどっしりとした形を数多く作っておりましたが、上部の肩の張った造形に好みが変化していきました。また耳などつけることによって、雅さや愛らしさの表現をし平和な時代の象徴ともいえるものを好みとされたのでありましょう。これは遠州髙取という言ってみればブランド化であり、徳川時代を象徴するような器づくりを指導されたのだと思われます。師匠である織部の美意識とは正反対のシンメトリーを美しいとしたところは当時の茶の湯道具としてはとても新しい感性であったことでしょう。何より茶の湯の道具つくりで大切なところは潔さといえるのではないでしょうか。見た目だけなら3年も励めば似たようなものは出来ます。しかしその一太刀にかける剣士のような其の心がなければ似て非なるものとなってしまいます。日々精進するしかありません。

高取焼

2018-6-1 UP

高取焼の歴史

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山を月俸七十人扶持、寺社格という高禄で迎え、直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。八山は日本で高取八蔵と名乗ります。この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて隣あった場所に位置します。その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に小石原村鼓釜床に開窯。この地が山奥で殿様がお越しになるには難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。

高取焼の特徴

高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた八山の試行錯誤の時期と思われます。内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって続いていたと考えられています。)主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」様式がほぼ完成します。

高取焼と小堀遠州

高取焼は遠州公の指導を受けた窯の一つとして挙げられます。これは藩主黒田忠之の茶の湯への傾倒のみならず、茶の湯の持つ政治的価値と、自国の高取焼の名を高めることが御家の存続に有効であるとの考えから、当時の茶の湯の第一人者であった遠州公に指導を仰いだと考えられます。忠之公は焼きあがった高取茶入を相当数遠州公の元へ送り、その監修を依頼しています。そして遠州公は上中下などの格付けと、特に良いものについては蓋袋を誂え、よそへ進物として使えるかどうかなどの助言も言い添えています。その中でも「横嶽」はもっともよい仕上がりで、以前に焼かれた「秋の夜」「染川」より優れているので、割捨てなさいとまで忠之宛ての書状に記しています。この「横嶽」についての書状が送られているのが、正保三年。翌正保四年(1647)2月6日遠州公は亡くなっています。遠州公没年の間際に遠州高取が様式的に完成の域に達したと考えられます。

高取耳付茶入 銘「横嶽」 中興名物

2014-11-16 UP

高取焼の茶入で有名なものの一つに「横嶽」という銘の茶入があります。

御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)

黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、命銘をお願いしました。遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさいとまで言っています。

そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わってしまいましたが、形はそのままに現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。

高取茶入 銘「下面(しためん)」 遠州蔵帳所載

2014-5-17 UP

遠州好みの面取がもっともよく表れたものでその形状から小堀遠州が命銘したと思われます。高取焼きは遠州公指導の窯の一つで遠州高取とも呼ばれます。

この茶入は、その遠州高取の絶頂期である白旗山窯(寛永七年・1630)のときに作られたものとされています。遠州公の茶会記に高取焼茶入が初めて登場するのが寛永五年(1628)4月23日で、同じ年に6回、寛永十年(1633)に1回、寛永十九年(1642)に2回、合わせて約九回使用したことが確認できます。

このうちこの下面が使用されたと考えられるのは寛永十年以降と思われます。遠州公以来小堀家歴代に伝わる茶入です。