遠州好みの面取がもっともよく表れたものでその形状から小堀遠州が命銘したと思われます。高取焼きは遠州公指導の窯の一つで遠州高取とも呼ばれます。
この茶入は、その遠州高取の絶頂期である白旗山窯(寛永七年・1630)のときに作られたものとされています。遠州公の茶会記に高取焼茶入が初めて登場するのが寛永五年(1628)4月23日で、同じ年に6回、寛永十年(1633)に1回、寛永十九年(1642)に2回、合わせて約九回使用したことが確認できます。
このうちこの下面が使用されたと考えられるのは寛永十年以降と思われます。遠州公以来小堀家歴代に伝わる茶入です。
遠州公の代表的な好みの一つが「面取(めんとり」です。きっぱりと面を取ったシャープなラインが特徴で今の時代にみてもモダンにうつります
この特徴は特に茶入と茶碗に多いものです。茶入には高取「下面」があります。寛永の始め頃、九州高取の白旗山に窯を築かせそこでできたものです。茶碗で有名なものには三井文庫蔵の遠州書付「面」があります。
もともとこの面取りという意匠は瀬戸の茶入真中古窯(瀬戸の茶入の分類名)にあるもので遠州公の好みとするものとして、中興名物にも選ばれています。他に薩摩焼やオランダで焼かれた茶碗にも下面の意匠を用いています。また茶碗茶入以外にも釜や薄茶器、水指などに面取が見られます。
遠州好みの形である前押は、茶碗や水指などの道具に見られる意匠です。正面に手で押したわずかなへこみを作りアクセントとしています。ここが正面ですよとお客様にわかっていただけるようにとの心配りからついています。
遠州流では濃茶の後、数名のお客様に次々と薄茶を点てる場合に重ね茶碗というものを使用します。同じ出生(窯)のもので、天目型の成りに正面をわずかにへこませた前押の形のものを大小重ねて使用する茶碗です。
遠州公は当初三島茶碗などの平茶碗をお客様の人数分重ねて点法したようですが、それを国焼きに改めて考案しました。切形(きりがた)と呼ばれる型紙をもとに遠州公の作為による前押茶碗を、八世宗中公が作らせた高取の重ね茶碗も今に伝わっています。この重茶碗というお点法は、遠州流特有のお点法です。
春慶とは、瀬戸窯の初代である加藤四郎左衛門 (藤四郎)が、晩年に春慶と称してから作ったものであると言われてる 茶入れの一群です。この茶入は形そのままに、遠州公が命銘したものです。遠州好みである瓢箪の形から名付けられました。お茶会ではおよそ七回使用されていて、第一回を除いて いづれもお正月に使われています。瓢箪という形は縁起の良い形です。 また遠州公が好んだ意匠でもあり、 遠州公が関係する様々なところで、この瓢箪の形を目にします。
遠州公の好んだ形「瓢箪」について。薩摩の窯に注文して焼かせた「甫十瓢箪」と呼ばれる茶入をはじめ遠州公は瓢箪の形をとても好みました。これは禅の教えとも関係があります。水に浮かべた瓢箪は上から押すと、一度は沈みますが、手を離すと別の場所にぽこっと浮かんできます。
「至りたる人の心は
そっとも(少しも)ものにとどまらぬことなり
水の上の瓢を押すがごときなり」
相手の心に逆らうのではなく、素直に意に従いしかも自分の心というものは決してまげないという「瓢箪の教え」からくるもののようです。茶道具の他に、文様や透かしにも瓢箪を多く用いています。
遠州公は数多くの国焼きを指導をしています。薩摩焼でも遠州公がお好みになられ作らせた十個の茶入を遠州公の号の宗甫と、数の十にちなんで「甫十」と呼んでいます。いずれも茶入の底に「甫十」の彫銘があり瓢箪形の耳付小茶入とされています。この茶入の胴部分二方が耳を示しています。新古今和歌集 春歌である
つくづくと 春のながめの 寂しさは
しのぶにつたふ 軒の玉水
から名付けられました。
遠州公のお好みになられた形の一つ「耳付」をご紹介します。遠州公以前にも見られた意匠ですが、遠州公は上の方に小さなアクセントのように耳をつけた瀟洒な形を好みました。茶入の小さな耳、笹葉をした耳、遠州茶道宗家の紋である七宝形、弦(つる)耳、花入や水指の管耳、福耳、釜の笛耳など、いずれも優雅な意匠をたたえています。耳付きの茶入には丹波「生埜(いくの)」「立花」膳所の「大江」、薩摩の「甫十」「甫五」など優れた作品が多く残ります。
瀬戸の窯で丸壺はあまりないようで大変珍しいものです。大切なお道具には、本体そのものは小さくても仕服や蓋、盆など様々な付属がつき、、その何倍にもなる大きな包みにくるまれていたりします。この「相坂」もが仕服が四種に牙蓋が七枚、盆なども作られ、その遠州公の愛憎ぶりが伺えます。茶会では12、3回ほど使用しています。
逢坂の嵐の風は寒けれど
行衛しらねば侘びつつぞぬる(古今集 読み人知らず)
の歌による銘でこれほどの茶入にまた合うことはないだろうとの意味がこめられています。
3月15日 遠州公の愛した茶入
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳記載の茶入
「在中庵(ざいちゅうあん)」を
ご紹介します。
この茶入はもともと堺の茶人
道休という人が所持していたもので
遠州公が、道休の住んでいた寺の名前の在中庵から
命銘しました。
遠州公秘蔵の茶入として蔵帳茶入の第一に挙げられていて
およそ55回の茶会で使用しています。
この茶入のためだけに使用する棚
「在中庵棚」まで作るほどの愛蔵ぶりです。
現在では大阪の藤田美術館に収蔵されています。
【告知】
大ヒット御礼!映画父は家元凱旋上映!
4月12日(土)~25日(金)
東京会場:シネ・リーブル池袋 http://www.ttcg.jp/cinelibre_ikebukuro/
東京都豊島区西池袋1-11-1 池袋ルミネ8階(池袋駅すぐ側)電話03-3590-2126
※上映時間は未定。(劇場にご確認ください)
【埼玉会場】
4月12日(土)~18日(金)
所沢:新所沢レッツシネパーク http://www.ttcg.jp/lets_tokorozawa/
埼玉県所沢市緑町1-2-1新所沢PARCO+Let’sLet’s館4階 電話04-2998-8000
※上映時間は未定。(劇場にご確認ください)
3月10日 官兵衛 秀長 郡山へ
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は日曜日ですので
大河ドラマに関連したお話を。
この頃
遠州の父、新介正次は浅井方でしたが
1570年の姉川の戦いで浅井家が滅ぶと
長浜城主となった豊臣秀吉によって
とりたてられ,その弟の、
羽柴秀長に仕えます。
遠州公が生まれた頃には秀長の下で
一千石を拝領する身分になっていました。
天正十年、本能寺の変が起こり
信長から秀吉の時代へ。
秀吉が関白となり、
天正十三年秀長は大和国郡山へ転封となるのに伴い、
正次も郡山へうつりました。
この地で加増され家老に立身します。
当時の郡山は、秀長を中心として
京都・堺・奈良と並んで
茶の湯の最も盛んな土地でした。
【告知】
映画 父は家元 【舞台挨拶】
金沢 シネモンド 御家元舞台挨拶
3月15日(土) 2回目(17:25~)の上映前に行います
映画 父は家元 公式ホームページ