伊賀焼
2019-1-28 UP
伊賀焼の歴史
信楽の地と山を越えると、そこは伊賀。伊賀市は三重県の北西部にあたり、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参拝者の宿場町として栄え、忍者や松尾芭蕉のふるさととしても有名な地。この伊賀でも茶陶の生産が行われていました。茶会記に初めて登場する伊賀焼は、天正九年(1581)十月二十七日に床飾りされた「伊賀壺」ですが、この時代に遡る古窯についてはよくわかっていません。本格的に伊賀で茶陶が焼かれ始めるのは、天正十三年(1585)に筒井定次が大和郡山からこの地に移封となってよりと考えられています。上野城内で茶道具の焼成を目的としてはじまり、慶長十三年、藤堂高虎・高次が城主となって後も引き継がれ、桃山陶器の一つの頂点を極めます。
伊賀焼の特徴
伊賀焼では、藤堂高虎を岳父にもつ遠州公の影響も伝わっています。『三国誌』に「寛永年間小堀遠江守陶工をして茶器を製せしむ、其製極めて精良なり」とあり、「遠州伊賀」と呼ばれています。「遠州伊賀」の特色は漉土にあって、それ以前の荒土の製に比べ肌が細かいことが知られています。
また「伊賀の七焼き」とも言われるように、伊賀焼の特徴である焦げや激しい造形は同じ作品を何度も窯で焼くことで生み出されるといわれることがありますが、「遠州伊賀」に関してはおそらく登り窯で一度の焼成で作られているようで、浅い火色に優美さが感じられ、「筒井伊賀」「藤堂伊賀」とはまた異なった繊細な雰囲気が印象的です。
2018年12月に根津美術館で開催された「新・桃山の茶陶」でも紹介されていましたが伊賀焼の水指などは、藩が贈答品として用いるために大名がその生産や流通に携わっていたため、当時は市場にでまわることはほとんどありませんでした。
