上野焼

2018-4-25 UP

上野焼の歴史

上野焼は利休の高弟子で知られる細川忠興(三斉)が、関ヶ原の戦いの後に豊前藩主となり、慶長7年(1602年)に朝鮮出兵で渡来していた李朝陶工の金尊楷(きん・そんかい)を招き、陶土に恵まれた上野の地(釜の口窯)で窯を築いたのが始まりとされています。尊楷は、移住した地の名をとって上野喜蔵高国と改名し、十五石五人扶持を拝領します。後に細川家の移封に従い、長男と三男を伴って肥後八代に移って高田焼を創始しました。尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると自らも扶持を返上して出家し宗清と名乗り、承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じました。熊本県八代市の上野喜蔵の墓が今も残っています。当時の高僧である清巌宗渭の箱書きを残す喜蔵作の貴重な八代茶碗・銘「ねざめ」が出光美術館に所蔵されています。史料的に喜蔵作と確定できるのはこの茶碗のみと言われています。細川家が転封を命じられ尊楷も共に熊本へ移って以後も尊楷の妻や孫が窯を守り、小笠原家歴代藩主が愛用した藩窯として栄えました。細川家から小笠原家へと藩主が変わって以後も上野焼は藩窯として幕末まで庇護されていきました。江戸の後期には楽焼の手法を学び、また現在の上野の代名詞となっている銅を含んだ緑青や、三彩紫などの装飾性も高まり、作品を特徴づけました。しかし明治維新後の廃藩置県により御用窯としての使命を終え、上野焼は一時途絶えます。明治35年に再興して以後も、苦しい時代が続きますが、行政の支援を受けつつ上野焼に挑む陶芸家が次第に増え、昭和58年には国(通産大臣)の伝統的工芸品の指定を受け、現在では二十軒を超える窯元が点在しています。上野焼の食器類は、古来から毒を消し中風になりにくくなると言われてきました。また、酒の風味を良くし、飲食物の腐敗を防ぐとも言い伝えられています。

上野焼の特徴と遠州好

細川忠興は千利休の弟子の中でも「侘茶」の忠実な継承者でした。その流れを受けて焼き締め調の施釉や直線的な造形にみられる道具の選び方にも遊びを最小限度におさえた武人としての
「侘茶」がうかがえます。また同時期にお茶堂として招かれた千道安の指導も考えられます。尊楷の作は素朴で重厚であり、朝鮮唐津や斑唐津、古高取に似ています。そしてその野趣溢れる大胆な作風が時の流れとともに釉の変遷を重ねていき、次第に豊かな装飾の美しさを加えていきます。遠州が指導した記録はありませんが、古来より遠州好みの窯の一つとして数えられています。小笠原家に代々伝わる道具には土見せの瀟洒な瓢箪茶入が伝わり、他にも権十郎蓬露の「あがのやき 瓢箪」と箱書きのつく茶入などがつたわって「綺麗さび」の好みの影響がうかがえます。