三世正恒宗実公

2014-1-2 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
新年明けて2日目。
見慣れた街の景色も、なぜか清々しく改まったように感じられる気がします。皆様も帰省されたり、自宅でのんびり過ごしたり、はたまたすでに仕事…など様々にお過ごしのことと思います。

さて本日は1月2日に因んで、三世正恒宗実公についてお話したいと思います。
三世宗実公は1649年に江戸屋敷で生まれます。
有職故実に長け、朝鮮通信使来日の際にご馳走役を務めたほか、日光東照宮の祭礼奉行などを歴任し、諸大名と茶道を通じて交友を深めました。1694年1月2日に亡くなっています。

遠州公以来三代に渡って収集された蔵品を整理した「小堀家器財帳」を作成し、これが後の「遠州蔵帳」の基礎となります。 この遠州蔵帳についてはまた改めてお話したいと思います。

このような資料から、茶人の好みや茶の湯の形を窺い知ることができるため、歴史研究に大変重要な資料であり、その礎を築いた宗実公の功績は大きいでしょう。

また当代十三世家元は三世宗実公の号を継承されました。

〈告知〉
世界初茶道ドキュメンタリー映画【父は家元】
テアトル新宿の公開初日はナレーションを務めた家元の次女、小堀優子が舞台挨拶を予定しております。

宗家の門松

2014-1-1 UP

皆様あけましておめでとうございます。 
遠州流メールマガジン 綺麗さびの日々 
本日から本格的にスタート致します。 
遠州流に関すること、 また折々の行事や美術館情報、 茶会や宗家でのお稽古風景など、様々な話題をお届けしていく予定です。 
こんなことにふれてほしい、 ちょっと聞いてみたいことなど 皆様のご意見ご感想を是非お聞かせください。 

さて第一回目の今日は門松に関するお話。  
お正月に飾る門松は、歳神様をお迎えする依代の意味があります。

では宗家ではどんな門松か、と申しますと、実は宗家では門松を飾りません。 
その理由は、十一世其心庵宗明宗匠の時代から 遠州流茶道宗家の正面玄関の両脇には松が植えられているからです。 そのためあえて松を飾ることをやめ、青竹の花入に千両と万両、 そして梅を入れて飾り付けしています。

今度宗家にお越しの際には 是非両脇の松を御覧になってみてくださいね。

〈告知〉

遠州流茶道ドキュメンタリー映画
【父は家元】が1/25よりテアトル新宿にて公開。
2/1からは横浜ニューテアトル。
大阪、福岡、金沢、名古屋、青森でも公開致します。

公式ホームページ
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映画の情報も日々更新してまいります。

山茶花

2013-11-26 UP

皆様ご機嫌よろしゅうございます。

本日は季節の花、山茶花(さざんか)についてお話いたします。

 

《季節の花:山茶花》

山茶花は、その年の気候によってかなり早く咲き始めることもありますが、あまり暖かな季節にふさわしい花とはいえません。

やはり秋風が冷たさを一層加えて、木枯しの吹きすさぶ頃が、まさにこの花の色が美しく映えてくるといえます。

山茶花は、ツバキ科の常緑小高木で、日本及び中国が原産とされ、現在は80種ほどの園芸種もあります。

ツバキ科の中では、最もよく椿に似ており、この実から採れる「さざんか油」もまた「つばき油」と同じ不乾性油で、髪や皮膚に付けると、抜け毛や毛切れ、裂毛を防ぎ、皮膚の炎症を抑え、フケや痒みなどを防止する効能があります。

また、食用としても良いし、時計などの精密機器用の潤滑油としても効果があるので、ほとんど「つばき油」と同じ性質を持っています。

この山茶花という、少し無理のある読ませ方をする名前ですが、もとは椿の漢名(中国の名)である「山茶(さんちゃ)」の「山茶花(さんさか)」の字音が変化したもの、というのが一定の説となっております。

春に花を盛んに咲かせるのを「つばき・椿」とし、それに対し、木も葉も花も実も小振りで、主に、冬に盛んに花を咲かせるのを山茶花としていたとも言われ、一年を通して、人間の眼を楽しませてくれます。

 

正座

2013-11-24 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は、正座についてお話いたします。

 

≪茶の湯:正座≫

古来より座り方には、跪座(きざ:ひざまずく)、箕距(ききょ:なげあし)、胡坐(あぐら)、立膝、結跏趺坐(けっかふざ:あぐらの状態から両足を交差させた状態で両太ももにのせる座禅時の座り方)など、様々なものがありますが、正座という座り方を用いるのは世界でも日本のみとされています。

しかし、日本においても、正座が一般的な座り方として知られるようになったのは、一説によると江戸中期の元禄・享保頃からと言われております。

それまでは、胡坐で座る事が一般的で、重要な祭典や祭儀があるときに用いられました。

また、他国では拷問時に使用されることもあるほど負担のかかる座り方であり、畳が開発・普及されるまで、日本人にとっても、大変特殊な座り方とされていました。

畳は古事記に初出しますが、一般民家で使用されるようになったのは江戸時代中期以降であり、茶道の広がりと相まって、正座も認知・使用されていきます。

しかし、現代では、畳の部屋が減り、椅子の使用が増え、また学校などにおいては正座が罰則として用いられるなど、正座・畳を取り巻く環境が変化しており、特殊化されつつあります。

茶道とは切り離すことのできない正座というものとの対話が、今後望まれているように感じられます。

新嘗祭

2013-11-23 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

新米がとても美味しいですね。

本日は新嘗祭です。

 

≪祝祭日:新嘗祭≫

新嘗祭は、天皇が新穀を天神地祇(てんじんちぎ)にすすめて、感謝の祭りをし、また自らも新穀を食せられる儀式です。

天神地祇とは、詳しい説明は避けますが、天津神、国津神のことで、「津(つ)」は「の」という意味であり、つまりは「天の神」、「国の神」に新穀を捧げる祭儀、ということです。

新嘗祭は数ある祭儀の中でも特に重要なものとされており、もとは天照大神が行ったと神話にあります。

飛鳥時代の皇極天皇の時から毎年11月に行われるようになり、一時中断する期間もありましたが、現在では毎年11月23日に伊勢神宮をはじめ、全国各地の神社で行われます。

祭典の方式は祭祀令の規定するところに従い、3つに分けられた儀式を天皇・皇太子が1日かけて行います。

全国の神社でも祭事は行われ、その年の収穫に感謝を捧げます。

ちなみに、唯一、出雲大社だけは、古伝新嘗祭といって他と異なる方式で祭事を行います。

もしご興味のある方は、参観できる神社もありますので、祭事にご参加されてみてはいかがでしょうか。

 

 

応灯関

2013-11-22 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は大灯国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の忌日です。

 

≪人物:大燈国師・宗峰妙超≫

大徳寺の開山であり、臨済宗大徳寺派の開祖として知られています。

また、宗峰妙超の師である大応国師・南浦紹明(なんぽしょうみょう)、また弟子である無相大師・関山慧玄(かんざんえげん)の三人を、現在の臨済宗の法系の祖として、【応・灯・関(おう・とう・かん)】と称しています。

 

また宗峰妙超の法嗣であり、大徳寺一世となった徹翁義亨(てっとうぎこう)は、晩年に徳禅寺を創建。

徳禅寺は応仁の乱で焼失してしまいますが、一休宗純によって復興します。

 

先述した【応灯関】の流れは、臨済宗、そして大徳寺を語るうえで忘れてはなりません。

のちに宗峰妙超を開祖とするのが【大徳寺派】、開山慧玄を開祖とするのが【妙心寺派】となりました。

毎年11月22日には、宗峰妙超を供養する開山忌が大徳寺であります。

普段は拝観できない法堂で行われるとのことで、多くの人々が集まります。

一休宗純

2013-11-21 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は、「一休さん」という愛称で有名な一休宗純の命日です。

 

≪人物:一休宗純≫

侘び茶の祖・村田珠光の師とされ、また破格奔放で知られた一休は、茶人の間で大変尊敬されています。

現在、「一休寺」の愛称で知られている酬恩庵ですが、もとは南浦紹明が創建したあと荒廃したままであったのを、一休が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。

一休は応永元年(1394)に生まれ、それまでの戒律に縛られない風狂な生き方で天皇や民衆から愛され、晩年を酬恩庵で過ごし、文明13年(1481) 88歳で没しました。

出自は後小松天皇の御落胤とされており、現在、酬恩庵に置かれる一休の墓は宮内庁の管轄となっているため一般の立ち入りは禁止されています。

遠州の茶会にも、一休の墨蹟は茶会で度々掛けられており、そこに尊敬の念が見て取れます。

そして、酬恩庵の境内に黙々寺を建立し、晩年を過ごしたのが、遠州の親友であった佐川田喜六でありました。

豪胆な武人として知られ、関ヶ原の戦のあとには、石田方でありながらも徳川家康の重臣・永井直勝に招かれ、家臣に加えられました。

遠州と同い年で、遠州に茶の湯を学んだ佐川田喜六は風流人としても知られており、共通の友人である松花堂昭乗と共に交流を深めました。

佐川田喜六は寛永20年(1643) 8月3日に、黙々寺で没します。

酬恩庵を起点にすることによって、様々な繋がりを見て取ることができます。

片桐石州

2013-11-20 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。

 

≪人物:片桐石州≫

片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。

賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。

遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。

石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。

やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。

 

遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。

寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。

やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。

延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。

鶉図

2013-11-19 UP

皆様ごきげんよろしゅうございます。

本日は鶉図についてお話いたします。

 

≪掛軸:鶉図≫

現在、根津美術館には国宝の李安忠の『鶉図』が展示されております。

李安忠は中国・南宋時代(12~13世紀)の画家で、「李安忠と言えば鶉、鶉と言えば李安忠」と呼ばれるほど、鶉に因んだ作品で有名です。

この『鶉図』は、日本には東山御物として請来し、足利将軍家に蔵されていました。

もともと、この『鶉図』には対をなしていた一幅がありました。

しかし、侘び茶の発展と共に、床の間の幅が狭まり、対幅の掛物を掛けられる茶室が減っていきます。

それによって対幅であったこの掛物も、一幅ずつ掛けられるようになり、時代が経つと各々に所有者が表れました。

よって、対幅の『鶉図』は一度離れ離れになってしまいます。

しかし、江戸初期になって、遠州によって書院造りの床の間が復活されると、遠州は真ん中に所持していた徽宗皇帝の鶺鴒を、左に李安忠の鶉を配し、右にそれと同じ寸法で、松花堂昭乗に竹雀の絵を描いてもらい、三幅対としました。

遠州蔵帳には三幅対として、以下のように記載されており、昨年の三溪園茶会では、蔀関月(しとみかんげつ)が写した三幅対が掛けられました。

 

「左・李安忠    鶉」

「中・徽宗皇帝筆  鶺鴒」

「右・松花堂昭乗筆 竹雀」

 

今では対幅や三幅対はそれほど珍しい飾り方ではなくなりましたが、拝見した際に、そこに遠州の知恵があったことを思い出せれば、と想います。

根津美術館には対幅であった『鶉図』の一幅が掛けられており、もう一幅は上記の三幅対となって個人像とされています。

小堀宗積先生

2013-11-18 UP

皆様ご機嫌よろしゅうございます。

本日は戸川宗積先生の御命日です。

 

≪命日:宗積先生≫

昭和24年9月5日、先代・紅心宗匠は4年間のシベリア抑留から解放、帰国されました。

その半年後、昭和25年3月19日に、音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が開催されました。

そして茶会が終わり、夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、ご姉弟にこのように誓われました。

「己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の為に全力を尽くします」

以来、宗積先生は、自己を律した厳しい御姿、分け隔てなく懇切丁寧にご教授される御姿で大勢の方から愛され、紅心宗匠の最も信頼する「宗家事務局長」としてご活躍されました。

 

慶應大学経済学部をご卒業され、その後就職されましたが、紅心宗匠の復員が遅れ、又、生死も不明であったことから、茶道の世界に身を置き、遠州流茶道の組織造りのために力を入れることとなりました。

その身を砕くほどの働きによって、シベリアからお帰りになった紅心宗匠の眼前には、既に「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地が出来上がっておりました。

今では51支部を数えるほどになった遠州流茶道の発展は、宗積先生の御尽力があったからこそだと言えます。

 

紅心宗匠は、宗積先生を追悼する文の中で、歌を詠まれています。

 

 

「道守り 其の身心を空となし

力つくして 今日ぞ散りゆく」