赤膚焼

2019-5-23 UP

赤膚焼の歴史

赤膚焼(あかはだやき)は奈良市五条町でつくられる陶器で、五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられていました。天正年間には、郡山(こおりやま)城主・大和大納言秀長(豊臣秀長)が尾張・常滑の陶工である与九郎を招いて開窯したのが始まりであるといわれていますが、江戸中期までは詳しいことはわかっていません。天明年間(1781-1789)には京都の陶工・治兵衛らが五条山に移り築窯し、寛政年間(1789-1801)には郡山藩主・柳沢堯山(ぎょうざん)の後援を得るようになりました。堯山没後は一時衰微しますが、天保期(1831-1845)に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、写物を焼成し再興しました。

赤膚焼の特徴

「赤ハタ」印は亮山から拝領したもので、「赤膚山」の印は以前から使われていたとされています。赤膚山とは窯のある丘の名称です。その後、治兵衛窯では仁清写しをはじめとする各種の写し物が盛んにつくられるようになりました。寛政以降は、西大寺の大茶盛などによって広く知られるようになり、奥田木白が名をあげました。作品には「赤膚山」や「木白」の印が捺されています。現在見られる白萩釉調の作風も木白に由来するものです。

今日では、赤膚焼は五条山の古瀬治兵衛堯三を元窯として複数の窯が続いています。俗に遠州七窯の一つといわれますが、源流としての茶陶の生産はさらに古くから行われていたと考えられます。現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼です。

赤膚焼と小堀遠州

遠州七窯に数えられてはいるものの遠州公以後の窯と考えられています。遠州公との関連は明確ではありませんが、秀長に仕えた父のもとで青年期を過ごされた大和郡山の窯であることから、何らかの関わりがあったのではないかと思うと、大変興味深く感じます。

古曽部焼

2019-5-21 UP

古曽部焼の歴史

幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに古曽部焼があげられています。伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。そのため遠州以後の窯と考えられています。寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。「古曾部」の印を権十郎蓬雪侯の筆とされていますが定説がありません。

丹波焼

2019-3-26 UP

丹波焼の歴史

六古窯の一つに数えられる丹波も、遠州公が関わった窯の一つです。その発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。初期の頃の丹波焼は、桃山時代まで穴窯を使った焼き締めの紐作りで、窯の中の炎と灰による自然釉の光沢を帯びた重厚な美しい、口の大きい甕などを主に制作しました。桃山の終わり頃には釉薬も使われだし、ドベと呼ばれる泥を塗って釉を掛けたような風情のものも焼かれます。慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)も取り入れられました。江戸時代に茶陶も焼かれ始めましたが、伊賀焼や、信楽、等の他の窯場に比較すると作風は強い個性を示してはいません。

丹波焼の特徴

丹波焼は他の古窯と比べると若干異なった歴史を歩んできました。窯のつくりも非効率、生産性の薄いものでした。しかしこの原始的で不合理な窯であるがゆえに、計算では作りえない自然の傑作が創出されたことも事実です。また、元々丹波の土は鉄分を多く含んだ酸性土で、釉薬が掛かりにくく、そのために焼き締めによって土味を引き出したのでした。この丹波焼の渋さを醸し出す土は、耐火度や粘り、白さなど好条件は一つとしてなく、どちらかといえばつくりにくい土。その決して良質とはいいがたい陶土と向き合ってきた陶工の苦労はどんなに大きかったことでしょう。しかしながら土の良し悪しなどといった考え方は人の勝手な言い分であり、丹波焼を激賞した柳宗悦は「上下を定める人間の分別の勝手さを考えざるを得ぬ、下品化生の人間の救いを契う他力門のあることを忘れてはなるまい。丹波焼は余すところなくその他力美を示している。その底知れぬ美しさは人間の不合理性、自然の合理性に遠く由来してくるのである。」と評しています。

丹波焼と小堀遠州

丹波焼がしばしば茶会記に記されるようのなるのは寛永年間にはいってからで「宗甫居士道具置合拵」には寛永七年五月二十三日「一茶碗 丹波焼 一水指 丹波焼」とあり翌八年九月四日に「一水滴(水滴型茶入) 丹波焼」とあります。 さらに同月二十二日に「一 茶入 生埜」とあります。この時期に丹波のどこかの窯屋と遠州との間に特別な関係があったことを物語っています。とくに「生埜(いくの)」茶入(湯木美術館蔵)は、丹波焼茶入第一の名作と評価が高く、優しい丸みを帯びた輪郭とちょこんとついた耳が印象的です。遠州公との関わりができるようになってからの茶陶丹波焼は、ほとんど黒飴釉や茶褐色の釉のかかった施釉陶で、瀟洒な作行からは他の窯同様「綺麗さび」の美意識を強く感じます。

能舞台の大甕

丹波焼の大甕が意外なところで使われている場所があります。それは能舞台。兵庫県篠山市の春日社の能楽殿は、丹波篠山藩主青山忠良が文久元年(1861)に奉納したもので、そのとき丹波の陶工に焼かせたのが七個の大甕です。「立杭釜屋村 源助作」とへら描きされています。春日神社の能楽殿は、“箱根より西では最も立派”と言われているそうで、この舞台を使って、兵庫県能楽文化祭が頻繁に行われているのだそうです。舞台の音響効果を高めるために大甕が床下に置かれていて、中央に置かれた大甕はシテ柱の方向に口を向けています。足で床を踏み、音を発する。これも太鼓や笛と同様、舞の音楽として使われる効果で、この演出に丹波の大甕が一役買っています。

膳所焼

2019-3-22 UP

膳所焼の歴史

膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことからその指導を受け茶器に力を注ぎました。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。

膳所焼の特徴

この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用されていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。

膳所焼と小堀遠州

本阿弥光悦が遠州の指導を受けて作ったといわれる茶碗「膳所光悦」。この茶碗は寛永十三年(1636)徳川三代将軍家光公を迎え、遠州公が品川林中に新しく完成した御茶屋披露のときに使用されたものです。半筒型をした本焼きの茶碗で、楽焼の柔らかい土で発揮された光悦の箆さばきが膳所の硬い土をもっても冴えている点は見事です。
本阿弥光悦は、遠州公の注文により遠州好みの茶陶器を多く制作しており、膳所の土を用いて作ったことからこの名前がつきました。将軍献茶の茶会に用いられた「膳所光悦茶碗」二碗で、遠州公ののち馬越恭平の蔵となったものとMOA美術館に所蔵されているものが伝来しています。

伊賀焼

2019-1-28 UP

伊賀焼の歴史

信楽の地と山を越えると、そこは伊賀。伊賀市は三重県の北西部にあたり、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参拝者の宿場町として栄え、忍者や松尾芭蕉のふるさととしても有名な地。この伊賀でも茶陶の生産が行われていました。茶会記に初めて登場する伊賀焼は、天正九年(1581)十月二十七日に床飾りされた「伊賀壺」ですが、この時代に遡る古窯についてはよくわかっていません。本格的に伊賀で茶陶が焼かれ始めるのは、天正十三年(1585)に筒井定次が大和郡山からこの地に移封となってよりと考えられています。上野城内で茶道具の焼成を目的としてはじまり、慶長十三年、藤堂高虎・高次が城主となって後も引き継がれ、桃山陶器の一つの頂点を極めます。

伊賀焼の特徴

伊賀焼では、藤堂高虎を岳父にもつ遠州公の影響も伝わっています。『三国誌』に「寛永年間小堀遠江守陶工をして茶器を製せしむ、其製極めて精良なり」とあり、「遠州伊賀」と呼ばれています。「遠州伊賀」の特色は漉土にあって、それ以前の荒土の製に比べ肌が細かいことが知られています。
また「伊賀の七焼き」とも言われるように、伊賀焼の特徴である焦げや激しい造形は同じ作品を何度も窯で焼くことで生み出されるといわれることがありますが、「遠州伊賀」に関してはおそらく登り窯で一度の焼成で作られているようで、浅い火色に優美さが感じられ、「筒井伊賀」「藤堂伊賀」とはまた異なった繊細な雰囲気が印象的です。
2018年12月に根津美術館で開催された「新・桃山の茶陶」でも紹介されていましたが伊賀焼の水指などは、藩が贈答品として用いるために大名がその生産や流通に携わっていたため、当時は市場にでまわることはほとんどありませんでした。

信楽焼

2019-1-7 UP

信楽焼の歴史

信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。

信楽焼の特徴

信楽焼はその素朴さが好まれ、茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。信楽焼に使われる土は、琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
信楽焼は珠光の「心の文」に「ひせん物、しからき物」とあるように、珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が茶の湯で使われていたことがわかります。備前ともに信楽の水指の登用は早く、15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。

信楽焼と小堀遠州

信楽の焼き物も遠州公が指導したといわれている窯の一つです。遠州信楽は漉土を用い肉が薄く精巧を極めているといわれています。代表的なものに長辺二方に浅い切り込みをつけ、高台は三方に切り込みをつけた割高台風の筆洗型茶碗「花橘」という、切形と呼ばれる見本をもとに焼かれた茶碗があります。この茶碗は高取や志戸呂などにみられる形と同じで、平天目形の一部を押さえ込んだ姿であり、「前押せ」といわれています。遠州信楽の特徴である漉し土で作られたものの中でも、極めて薄く作成された作品です。 信楽の土の味わいをいかしつつ、綺麗さびの瀟洒な美意識が投影され、洗練された作品を生み出しました。

備前焼

2018-12-10 UP

備前焼の歴史

備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。

備前焼の特徴

備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。

備前焼と小堀遠州

遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。

朝日焼

2018-12-3 UP

朝日焼の歴史と小堀遠州

京都の南、宇治川の流れと山々の緑。豊かな自然に恵まれた宇治は平安時代、貴族の別荘地でした。平等院鳳凰堂でも知られるこの地ですが、京都のにぎやかさとは異なる穏やかな時の流れを感じます。宇治川の朝霧に守られながら栽培される抹茶は、栂尾と並び第一の産地に。天下人達が宇治の茶を好んで求めました。
そしてこの宇治川の源流となる琵琶湖から流れくる土が粘土となり、朝日焼に使われる陶土となりました。

宇治此の頃は茶の所となりて
いづこもいづこも皆(茶)園なり
山の土は朝日焼の茶碗となり
川の石は茶磨となる
竹は茶杓茶筅にくだかれ
木は白炭に焼かれて茶を煎る

と江戸時代初期の北村季吟が、山城の名所名勝記「兎芸泥赴」に記しています。宇治という土地で「茶」というものの存在がいかに重要であったかが伝わります。

朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。当時、茶碗に印を残すという行為は珍しかったようです。朝日焼の特徴として、褐色の素地に黒斑を伴う釉肌をもち、箆目・轆轤目・刷毛目が景色として表れる点が挙げられます。

また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。そしてこの地で焼かれた朝日焼は、後に「遠州七窯」の一つとして数えられるようになりました。

高取焼

2018-6-1 UP

高取焼の歴史

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山を月俸七十人扶持、寺社格という高禄で迎え、直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。八山は日本で高取八蔵と名乗ります。この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて隣あった場所に位置します。その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に小石原村鼓釜床に開窯。この地が山奥で殿様がお越しになるには難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。

高取焼の特徴

高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた八山の試行錯誤の時期と思われます。内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって続いていたと考えられています。)主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」様式がほぼ完成します。

高取焼と小堀遠州

高取焼は遠州公の指導を受けた窯の一つとして挙げられます。これは藩主黒田忠之の茶の湯への傾倒のみならず、茶の湯の持つ政治的価値と、自国の高取焼の名を高めることが御家の存続に有効であるとの考えから、当時の茶の湯の第一人者であった遠州公に指導を仰いだと考えられます。忠之公は焼きあがった高取茶入を相当数遠州公の元へ送り、その監修を依頼しています。そして遠州公は上中下などの格付けと、特に良いものについては蓋袋を誂え、よそへ進物として使えるかどうかなどの助言も言い添えています。その中でも「横嶽」はもっともよい仕上がりで、以前に焼かれた「秋の夜」「染川」より優れているので、割捨てなさいとまで忠之宛ての書状に記しています。この「横嶽」についての書状が送られているのが、正保三年。翌正保四年(1647)2月6日遠州公は亡くなっています。遠州公没年の間際に遠州高取が様式的に完成の域に達したと考えられます。

薩摩焼

2018-5-5 UP

薩摩焼の歴史

薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529~1598)で朝鮮出兵した薩摩の島津義弘が80人余りの朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。陶工を乗せた三隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着し、それぞれの場所で窯が築かれたといわれています。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼、種子島系などに分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。

薩摩焼の特徴

渋い趣の器があるかと思えば、華やかな金襴手や庶民ための民芸などもあり、多様なスタイルの焼き物が焼かれてきた薩摩焼。薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。

薩摩焼に刻まれた記憶

司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。

薩摩焼と小堀遠州

遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。