3月 4日(金) 能と茶の湯
「竹生島」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「竹生島」をご紹介します。
「竹生島」は神をシテとする脇能物で、
作者は不明とされています。
時は三月、琵琶湖湖畔には桜の花が咲き乱れ
穏やかな春の風景が広がります。
この琵琶湖に浮かぶ竹生島明神を訪れた
醍醐帝の朝臣が、女を伴った老翁に舟で
迎えられます。
老人は臣下を社に案内すると、
連れの女も一緒に来たので、臣下は老人に、
竹生島は女人禁制ではないのかと問います。
すると、竹生島は女体の弁才天を祀り、
女性をお隔てにならないと返し、
島の由来を臣下に語り聞かせます。
その後老翁と女は弁財天と竜神となり、
朝臣に金銀珠玉を授けます。
島の神社に祀られている弁財天、
そして琵琶湖の水の精ともいうべき
龍神の霊験を讚え、国家安穏を祈願する
祝言能で、謡いやすい曲として親しまれています。
2月26日(金)能と茶の湯
「尾上釜(おのえがま)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして「高砂」に
ちなんだ茶道具をご紹介します。
今日は「尾上釜」です。
播磨(兵庫県加古川)尾上神社所蔵の朝鮮鐘
(ちょうせんがね)を形どって作った釜で
あることから「尾上」と名付けられ
五郎左衛門作と極められています。
鐶付が獅噛、共蓋に竜頭のつまみが通常の作りで
蓋裏に「尾上の鐘」の文字が鋳出してあります。
胴の正面に「播州」と「高砂」、
裏側に「尾上」の文字を鋳出しています。
能「高砂」では、竹さらいと杉箒を持った尉と姥が
囃子にのって静かに歩み出て、橋掛りで
向かいあい、
高砂の松の春風吹き暮れて
尾上の鐘も響くなり
と謡います。
2月22日(月) 飛梅・老松
東風ふかば 匂いおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ
ご機嫌よろしゅうございます。
梅の花の咲く頃、天神茶会の行われる
季節となりました。
「東風ふかば…」の歌は昨年もご紹介しましたが、
菅原道真の歌としてとても有名です。
この梅には天皇に重用されていた道真をねたむ
藤原時平の讒言によって、太宰府に左遷となった
主・道真を慕って、都から太宰府まで飛んでいった
という「飛梅」伝説があります。
そしてその梅を追って松がやってきた。
桜は同じ籬にありながら主の思し召しがなかった
ことを怨み、一夜のうちに枯れてしまったといいます。
能「老松」では、間語りで
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に
何とて松は つれなかるらむ』
と詠まれます。
この「老松」は長寿の象徴である松・春、
先駆けとして咲く梅のめでたさを讃える祝言能です。
かつて徳川幕府でも正月三日に諸大名によって
祝いの席が設けられ、観世太夫がこの「老松」
を謡いました。
2月19日(金)能と茶の湯
「芦屋(あしや)高砂釜」
ご機嫌よろしゅうございます。
今週は「高砂」にちなんだ釜を
ご紹介します。
現在五島美術館に収められている
芦屋の高砂釜は鴻池家伝来で、
同家にはもう一つ高砂地紋釜があり、
江戸時代中期には二つ揃えであった
といわれています。
一面に尉と姥を、
他面には竹林に鶴を配しています。
鐶付は亀です。そして、
我見ても久しくなりぬ住吉の
岸の姫松幾世経ぬらむ
この歌が尉と姥、竹林の模様の間に
鋳出されています。
「私が見てからも久しいこの住吉の姫松は
一体どれだけの御代を経たのであろう。」
この歌は高砂から住吉に移り、住吉明神が
現れて謡ます。
また「伊勢物語」や「古今集」にもこの歌が
みられます。
2月12日(金)能と茶の湯
「染付高砂花入」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「高砂」のご紹介を致しました。
この「高砂」にちなんだ道具でよく
知られるのが、
「染付高砂花入」です。
図柄と形が大変インパクトのある花入で
花入の首の裏表に描かれた二人の人物が
尉(じょう)と姥(うば)に見立てており、鯉耳のついた
砧型をしています。鯉も日本では
祝意を表すものとして好まれます。
肩には蓮弁文、胴部分に水藻文が施されて
いて、この手の類のものは「高砂手」と
呼ばれています。
日本以外にはこの手のものが見当たらないこと
から日本からの注文品と考えられ、
本歌は中国・明代末期とされています。
2月5日(金)能と茶の湯
「高砂(たかさご)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「高砂」についてご紹介します
平安時代前期の延喜(えんぎ)の頃。
都を見物しようと九州からのぼってきた友成一行は、
高砂の浜辺に立ち寄り、松の落葉を掃く老夫婦に
出会いました。
老夫婦は相生(あいおい)の松のいわれについて、
高砂の松は『万葉集』、住吉の松は『古今和歌集』
をあらわし、歌が盛んに詠まれ世の中が
平和であることを象徴する松なのだと語ります。
そして我ら夫婦は、それらの松の精なのだと
正体を明かし、住吉で待とうと告げて小舟に
乗って姿を消します。友成らが月夜に船を出し、
住吉の浜辺にやってくると、西の波間から
住吉明神が現れます。明神は長寿をほこる
松のめでたさを称え、さっそうと舞を舞います。
澄んだ月明かりのもと、舞につれて、
松の梢に吹き寄せる心地よい風の音が聞こえ、
明神は平和な世を祝福するのでした。
(※日本芸術文化振興会参照)
「高砂」は、祝いの曲として広く知られ、今でも
祝言やおめでたい席でうたわれます。
次週はこの「高砂」に関連した茶道具を
ご紹介します。
1月29日(金)能と茶の湯
「翁」
ご機嫌よろしゅうございます。
新年を迎えると、「翁」とよばれる演目が
必ず各地の能舞台で演じられます。
「翁」は能の中でも神能の特殊な演目で
「能にして、能にあらず」と言われ
霊的な力を授けられた”神の使い”である翁の舞は、
国家安静、五穀豊穣を祝う神事とされています。
「とうとうたらりたらりら
たらりあがりららりとう…」
という謡にはじまり、舞の間に翁が翁面を
つけるのですが、観客の前で演者が面をつけるのは
この曲だけ、この面をつけることにより
翁は神格を得ます。
遠州公がこの「翁」にちなんで銘をつけた
茶入があります。「大正名器鑑」には
「作行の古雅なる、黄釉のなだれの物寂びたる
人をして翁の面に対する想いあらしむ」
と記されています。
瀬戸破風窯のその茶入には挽家蓋・内箱蓋・仕覆蓋
の書付を遠州公自らしており、愛蔵ぶりが伺えます。
1月 22日(金)能と茶の湯
「利休と能」
ご機嫌よろしゅうございます。
侘び茶の大成者である千利休は、
大変能が好きで、勧進能といわれる
能の興行ごとに足を運び、宮王道三・三郎
兄弟の能楽師の楽屋をときおり訪ねていた
といいます。
また、この三郎には宗恩という妻がおり、
利休の様々な質問にも明朗な回答をする
聡明な女性でした。
利休は謡曲をこの兄の道三に学び、道三は
利休に茶を学ぶ大変親しい間柄であったことも
あってか、
天正九年(1581)に利休の先妻が
亡くなった翌年、三郎を亡くしていた宗恩と
利休は道三を親がわりとして結婚しています。
また利休には実子道安がいますが、
三郎と宗恩との間にできた息子道安と同い年の
少庵を養子とします。
この少庵が千家第二代であり、三代目は
少庵と利休の娘お亀との間に生まれた宗旦です。
この宗旦と遠州公は同い年になります。