8月8日(月)黒田正玄(くろだしょうげん)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の時代に柄杓師として活躍した
黒田正玄をご紹介します。
正玄は天正6年(1578)越前黒田の武家に
生まれます。主家が関ヶ原の合戦で西軍に与し、
一時改易となったことで黒田も二十三歳で剃髪、
「正玄」と称し、近江大津に移り住み竹細工を生業と
するようになりました。
秀吉に柄杓作り天下一の称号を許された一阿弥に
柄杓作りを学び、また遠州公に茶を学びました。
寒暑雨雪を厭わず遠州公の伏見屋敷に毎日通い
稽古を重ねたので、その熱心さから「日参正玄」
と呼ばれました。
その熱意に遠州公も応え正玄に残らず伝授した
と伝えられています。
江月宗玩に参禅し、江月や千宗旦の柄杓も作りました。
その後二代から八代までは将軍家御用柄杓師として、
三代から千家御用となり、現在まで続いています。
(1653)8月8日享年七十六歳で亡くなります。
7月29日(金)
能と茶の湯 「兼平」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週ご紹介しました香木「柴舟」 の銘の由来となりました謡曲
「兼平」の物語をご紹介します。 木曽に住む僧が、木曽義仲を弔うため、
近江国・粟津の原に向かいます。
琵琶湖の畔の矢橋浦に着くと、 柴を積んだ一艘の舟が通り過ぎ 世の業の、
憂きを身に積む柴船や、 焚かぬ前よりこがる覧 と歌われます。
この柴舟に乗せてもらい、僧は粟津を目指します。 船頭は僧に舟上で、このあたりの名所を教えます。
都の鬼門を守る比叡山の延暦寺、その来歴を きくうちにやがて粟津に到着します。
この粟津原は、木曽殿と今井四郎兼平の終焉の地。 懇ろに弔い野宿をしていた僧の前に、
甲冑を帯した兼平の霊が現れます。
先程僧を導いた船頭は自分であると明かし、 主君である木曽義仲の最期と、それを見届け、
壮絶な自害を遂げた自身兼平の様子を詳しく 物語るのでした。
尚、柴舟の香は 世の業の浮きを身につむ柴舟は 焚かぬさきよりこがれこそすれ の和歌からとられたというのが通説となっています。
6月27日(月)久保権大輔
ご機嫌よろしゅうございます。 明日6月28日は久保権大輔の命日にあたります。 久保権大輔は奈良春日社の神官の家に生まれます。 「長闇堂」とも呼ばれ、侘茶人としても知られています。そして遠州公とも深い親交がありました。 身分も低く貧しい権太夫が、名物道具を拝見するには どうしたらよいかと遠州公に相談したところ、袋師になることを勧められたという話が残っています。 袋を作るには実際に道具が手元になくては作れません。袋を作る間だけ、様々な道具が手元におけるというわけです。 息子の杢(もく)もその後を継いでいます。 また権太夫が方丈の庵を作り遠州公に 額を頼みました。 それが「長闇堂」 この名は遠州公が鴨長明にちなみ、「長明は物知りで明晰であったがあなたは物を知らず”智にも暗いので ”闇”だ」 というわけで長闇堂と名付けたと言われています。 寛永十七年(1640)六月二十七日亡くなります。遠州公は死を悼み、自ら筆をとり 文に歌を書き付けています。
春の日の光をあふぐ法の舟 ちかひのうみは 浪かぜもなし
12月 14日(月)王服茶
ご機嫌よろしゅうございます。
12月13日は事始め
いよいよ新しい年を迎える準備を
始める時期となりました。
かつて京都の空也堂では、
事始めから大晦日まで、
僧が手製の茶筅を売り歩く風習がありました。
この茶筅でお茶を点てると無病息災の
御利益があるといわれ、お正月に頂くのが
慣わしでした。
村上天皇の時代、都に疫病が流行しました。
空也上人は観音菩薩に疫病調伏を祈願し、
茶筅で点てた茶を供えて民衆に分け与えました。
この空也上人については11月16日にご紹介しました。
茶を服した者はたちまち平癒したといいます。
これを知った天皇が、正月三ヶ日に茶を
召し上がるようになったそうです。
その風習は「王服茶」と呼ばれ、
この故事に因み、空也堂の僧侶は師走になると、
正月の王服茶を点てるための茶筅を売り歩いたのでした。
11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(3)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は道の記下りの一日目
寛永十九年十月八日の日記の一部を
ご紹介します。
「神無月初の八日武府(ぶふ)に赴く為」
洛北の傍より餞別の志を一偈して 消息そへて給ふ
おほやけのことしげきに ひらきもえせで
その日もくれ竹の 伏見のさとを
まだき朝に立て関山をこえて うち出の里に着」
公務が忙しく、出発の前日に江月和尚からいただいた
手紙を読む暇もなく一日すぎてしまった。
「道の記」はこの一文から始まります。
このなかの「ことしげきに…くれ竹の…」
という一節からは、遠州蔵帳所載
遠州公自詠歌銘のついた茶杓
ことしげき 年は一夜に くれ竹の
伏見の里の 春のあけぼの
の歌が思い浮かびます。
11月 16日(月)空也と茶筅
ご機嫌よろしゅうございます。
三日前の11月13日は空也忌でした。
空也上人は平安時代、諸国を遍歴して踊りながら
念仏を唱えることで庶民に念仏を勧めました。
「寺を出る日を命日とせよ」と遺言したため、
寺を出たこの日が命日になっています。
さてこの空也上人は、当時流行した疫病を
退散させるおまじないとして柳の木を削り
削り花をつくりました。
これが茶筅の原型と言われています。
そして京都の空也堂の僧が、
青竹茶筅を作り、竹の竿にその茶筅を
藁にさしたものをつけて肩に担いで売り歩く
「茶筅売り」という年末の風物がありました。
この茶筅で正月にお茶を点てていただくのが
「大福茶」とよばれるもので、無病息災の
御利益があるといわれました。
この大福茶についてはまた来月ご紹介します。
11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。
六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。
文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。
10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。
遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。
また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。
宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。
政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。
10月16日 遠州公所縁の地を巡って
「加賀と遠州公」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と加賀の前田家について
ご紹介します。
120万石の大大名であった加賀前田藩ですが、
外様大名であり、監視の厳しい幕府へ反抗の意志なし
との表明として軍事費を極力抑え、財力のほとんどを
文化政策に注ぎました。
三代藩主前田利常は、歴代藩主中傑出した
業績を残した大名です。
その利常の指導役として遠州公が働き、
四代光高に引き継がれ、加賀・金沢に茶の湯を
はじめとする見事な芸術文化が花開きました。
遠州公と前田家では二代藩主利長が遠州公の甥である
小堀重政を、また利常が遠州公の孫にあたる小堀新十郎を
召抱えるなど、茶の湯を通じてできた深い関係がありました。
また熱心に茶の湯指導を仰ぐ利常の書状など
よく残っていますが、他にも庭園についての助言もして
いたようで、遠州公に関わる多くの建物や庭が存在します。
利常は遠州公の一言で大津の別邸で工事中の庭園を取り壊し、
琵琶湖や叡山を借景とした雄大な庭園に造り変え、
遠州公は「これこそ大名のお庭である」とほめたそうです。
また兼六園の一部、金沢城本丸茶室と路地、
兼六園から金沢城二の丸につながる逆サイフォンの技術も、
遠州公の設計といわれています。
そして、隠居した利常は、遠州公に指示を仰ぎ、数奇屋を築き
できあがった書院や数奇屋を「遠州屋敷」と呼んでいました。
金沢の地にも遠州公の綺麗さびの心が根付いていることが
わかります。
10月 5日(月) 藤堂高虎(とうどうたかとら)
ご機嫌よろしゅうございます。
10月 5日 は、藤堂高虎の命日です。
遠州公の義理の父であることは皆様よくご存知の
ことと思います。
高虎は遠州公の才をいち早く見抜き、
養女を迎えて遠州公に嫁がせ、縁戚関係を結びました。
遠州公の父・新介と同じく、浅井氏の没後は、
豊臣秀長に従い、その才覚から後に家康にも
重用されました。
その信頼ぶりは家康の臨終の際に呼ばれ、
家康亡き後、万が一のことがあれば、戦陣の一番手を
高虎に任せよ。と遺言したことからもわかります。
また家康の念願であった、孫の和子入内も、
高虎の働きによって公武の話し合いが進められ
ついに実現しました。
この高虎が実現させた入内のために、
遠州公も後に作事奉行として
大いに活躍することとなるわけです。
寛永七年(1630)十月五日、七十五歳で亡くなります。