向栄会

2018-8-20 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州流では毎年、全国の各支部が担当し、その場へ門人が一堂に集まる

「全国大会」という大きな行事があります。

今年の担当は東京支部。

そして、その東京支部の全国大会に向栄会が釜をかけます。

向栄会は遠州流の好みの道具を作る職方達の集まり。

ご先代紅心宗慶宗匠が戦争からお帰りになられた後、
御舎弟の戸川宗積先生が職方を組織して向栄会を作られました。

そして、その職方が日頃より研鑽を積み作り上げた作品を
披露する向栄会展が数年に一度催されます。

そこでメールマガジンでは、10月の向栄会展まで、

遠州公縁の茶陶のお話しを少しお休みしまして、来月8月から

向栄会職方の方々をお一人ずつご紹介してまいります。

また皆様からいただきましたお道具に関する質問も

ご紹介していきたいと思っております。
お道具について、菓子・呉服についての疑問ありましたら
メールをお送りください。

どうぞお楽しみに。

青嶋利陶インタビュー

2018-5-4 UP

志戸呂利陶窯の青嶋利陶さんのお話を伺います。
青嶋さんはいつお会いしても穏やかで、ご一緒する時はほっと空気が和やかになるような優しい雰囲気をお持ちの方です。青嶋さんはいつ頃から作陶をはじめられたのですか?

青嶋さん:父親の実家が静岡市で賎機焼という焼き物を家業としていたのでそこで27年前に習い初めました。その3年後に本多利陶先生に弟子入りして志戸呂焼をはじめました。

遠州公の指導のあった志戸呂で、ご先代宗慶宗匠や林屋晴三先生の指導もあり本多利陶先生が平成3年に金谷の地に利陶窯を作られたのですよね。遠州公が東海道の往来で、花器の指導をしたという話を聞いたことがありますが、その指導を受けた作品は残っているのでしょうか?

青嶋さん:当時大名が直接作陶の指導をするという事はあり得ないと思われるので花器の話は伝説的なものだと思います。

志戸呂
遠州公の時代から現在まで、志戸呂焼は瀟洒な茶陶を生み出しています。青嶋さんも宗実御家元のご指導を受けて遠州好みの作品を制作されていますね。御家元のご指導や他の作陶と違う点について教えてください。

青嶋さん:御家元のところに伺うと古いものをよく拝見させていただく機会があり、部分的に形や細工を変えてみる等の細かい点もご指導をいただけるのでとてもわかりやすく勉強になります。志戸呂焼は渋めの釉薬が多いので、遠州好みの端正な形や薄造りを心掛けて茶道具以外にも取り入れています。

利陶窯は志戸呂で唯一の登り窯と伺いました。登り窯の大変な点を教えてください。

青嶋さん:まずは燃料の赤松を確保することが難しくなってきました。利陶窯の周辺には無いので山梨県や長野県から運んで来ます。

赤松を燃料に焼かれているのですか。

青嶋さん:赤松は松やにが多く見られるように、樹脂が多いので火足が長く温度が上昇しやすいために焼き物ではよく使われています。杉や檜でも焼いた事はありますが、時間がかかるうえに作品の発色がよくありません。赤松は樹脂が多いためか煤(すす)が多く燻された感じで色に深みが出るように思います。2日かけて500点程の作品を焼くので登り窯を焼くのは年1~2回です。500点焼いても壊れるものが多いので完成品は僅かです。

作品が出来上がるまでには大変な苦労があるのですね。本日はありがとうございました。

8月25日(金)茶の湯にみる文様「青海波」

2017-9-1 UP

ご機嫌よろしゅうございます。これまで波の文様を
幾つかご紹介してきました。
今日は「青海波」のお話をしたいと思います。

「青海波」は同心円を幾重にも重ねた波文で、

ペルシャ・ササン朝様式の文様が中国を経由して

伝播したといわれています。

唐楽から伝わった雅楽の舞曲「青海波」で舞人が、

この形の染文の衣装をつけて舞うのが

名前の由来と言われています。

元禄の時代に勘七という漆工がこの波形を刷毛で

描くのを得意とし、大いに流行したため世間で

彼を青海勘七と呼びました。

名物裂では本能寺所伝とされる本能寺緞子や三雲屋緞子

織部緞子などがあります。

本能寺緞子は二重の青海波に捻り唐花と8種の宝尽しの図柄で

大名物油屋肩衝の仕覆として

三雲屋緞子はその色替りとされる裂で中興名物の「染川」や
「秋の夜」の仕覆に。また織部緞子とも呼ばれる
青海波梅花文緞子は大名物の松屋肩衝にそっています。

醒酔笑

2017-5-19 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は醒睡笑のお話をご紹介します。

「茶は眠りを覚ます釣り針である」という。
また「茶は食べたものを消化させる」ともいう。

吾門にめさまし草のあるなへに
こひしき人は夢にだに見ず
自分の家には「目さまし草」があるから眠れず、
恋しい人を夢にさえ見ない。などと言って、
人々がほめそやしながら茶を飲んでいた。
その末席に百姓がいて、「それなら、私たち百姓は、
一生茶を断ち申しましょう。一日中頑張っても、
その夜じっくり眠ればその心労も忘れます。
また、食べるのに事欠くことさへあるのに、
すぐ消化してしまうのではなんの役にたつのでしょう。
ああ いやな茶ですよ」と頭を横にふった。

そこで「憂喜依人(好き嫌いも人の境遇による)」という題で、
ますらをが小田かえすとて待雨を
大宮人やはなにといはん
農夫が田を鋤きかえして心配して待つ雨を、
大宮人は花が散るので嫌うだろう。と詠んだ。

何となく人にことはをかけ茶わん
をしぬぐひつつ茶をものませよ

花をのみまつらん人に山さとの
雪間の草の春をみせばや
千利休は「侘び」の本意として、この歌を常に吟じ、
心にかける友に対しては、いつも心してお忘れにならなかった。

契りありやしらぬ深山のふしくぬ木
友となりぬる閨のうづみ火
これは牡丹花肖柏の歌で、古田織部は冬の夜の物寂しいときに
この歌を好んで吟じられた。

茶の湯に見られる文様「橋」

2017-4-28 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は船をご紹介しましたので、本日は橋を
ご紹介します。

さむしろに 衣かたしき
今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫

この歌を歌銘とした瀬戸真中古窯「橋姫」があります。
遠州公がこの茶入を宇治で見つけ、その成り姿を讃え
この銘をつけたとされています。

この「宇治の橋姫」とは橋の守り神であり女神で
もとは宇治橋の三の間とよばれる欄干に橋姫社が
祀られていましたが、度重なる洪水により現在の
宇治橋西詰に移りました。
ちなみにこの三の間から汲み上げられた水は天下の
名水とされ、秀吉は橋守の通円にこの水を汲ませ茶の湯に
使ったと言われています。(この通円は昨年ご紹介した
狂言「通円」につながります。)
同じく「橋姫」との銘をもつ志野の茶碗が、
東京国立博物館に所蔵されています。
橋の欄干部分が二重線で描かれ、両端に擬宝珠、橋脚が二本
非常にシンプルな絵付けの茶碗です。
この志野や織部とほぼ同時期に流行した画題に「柳橋水車図」
があります。
大きな橋、柳と水車、蛇籠
このデザインは宇治橋の風景を描いており、各派によって
描かれましたが、なかでも長谷川等伯を筆頭とする画師集団
の長谷川派の得意とする画題となります。
茶道具でこの意匠を用いた有名なものに野々村仁清作
「色絵柳橋図水指」(湯木美術館蔵)があります。

12月 9日(金)能と茶の湯「岩橋」

2016-12-9 UP

12月 9日(金)能と茶の湯「岩橋」ご機嫌よろしゅうございます。利休作竹一重切花入「岩橋」をご紹介します。竹が侘びた錆味を見せ、裾に未完成とも思える鉋目(かんなめ)があることから遠州公が、明けぬ間をたのむ一夜の契だに尚かけわぶる久米の岩橋の古歌より引用し命銘されました。「久米の岩橋」は能に登場しました伝説上の石橋で、役行者が大和国葛城山の一言主に葛城山から吉野金峰山に架設を命じますが、一言主は己の醜い要望を恥じ、夜だけしか働かなかったため工事は完成しませんでした。この伝説になぞらえて遠州公が命銘されています。

石臼

2016-11-14 UP

茶の湯の世界では、11月は炉開きに口切と続きお正月にあたるおめでたい月にあたります。口切で取り出した新しい茶葉は石臼で挽いていきます。彦根藩主であった井伊直弼が
「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」において、「茶を挽くは大事也挽きもあらくては如何ほどの名器を出し飾りても、実意あらず」と書いているように、石臼は茶の味を左右する
大変重要な道具です。にもかかわらず、石臼についての形や機能などの資料はあまり残っていないそうで、なぜ左回しなのか、それ自体についても研究はあまりなされていないそうです。

「姥捨(うばすて)」

2016-9-23 UP

9月23日(金)能と茶の湯
「姥捨(うばすて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は、先週ご紹介しました謡曲「姥捨」
にちなんだ銘の茶碗をご紹介します。

「姥捨」は姥捨伝説を題材にされていますが、
その悲劇を主としているというよりも、
月光の下で舞う老女の遊舞、人の世界を脱し
浄化された美の世界を表しています。

黒楽茶碗「姥捨黒」左入作
楽家六代の左入が四十八歳の時に赤黒二百碗
連作したうちの一つで、穏やかな作風の黒楽です。

赤楽「姥捨」九代了入作
柔らかな趣の赤茶碗で、赤黒200碗の連作「了入二百」
の一碗です。

また本阿弥光悦の黒楽にも「姥捨」の銘を持つ
茶碗があります。

老婆の魂を浄化する姥捨山にかかる名月の清らかな光
「姥捨」という銘は、そんな情景を連想させます。

8月19日(金) 能と茶の湯

2016-8-19 UP

8月19日(金) 能と茶の湯
「俊寛」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は、先週ご紹介しました能「俊寛」から
銘のついた茶碗をご紹介します。
黒楽「俊寛」は楽焼の初代、長次郎作の名碗です。
利休が薩摩在住の門人の所望により
長次郎の茶碗を三碗送ったところ、
この茶碗を除く二碗が送り返され、
一つ残されたことからこの銘が付けられたということで す。

箱裏にはこの伝えを踏まえた仙叟宗室の狂歌が、
また、この碗の箱蓋表のほぼ中央に利休筆
と伝えられる「俊寛」と書かれた紙が張られています。
遠州流では楽茶碗を使用しませんが、この俊寛は、先代
紅心宗匠も、当代宗実家元も長次郎作品の中で
一番好きな茶碗であるとおっしゃっています。
現在重要文化財に指定され、三井記念美術館が
所蔵しています。
ちなみに俊寛は願いむなしく三十七歳の若さで
島で亡くなります。現在でもお盆には俊寛を
弔う「俊寛の送り火」が焚かれています。

8月12日(金) 能と茶の湯

2016-8-12 UP

8月12日(金) 能と茶の湯
「俊寛(しゅんかん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

明日から旧歴のお盆の入りにあたります。
お盆の送り火で有名な大文字山の麓に鹿ケ谷があります。
この地にあった僧俊寛 の山荘で、後白河法皇の近臣により
平氏討伐の謀議が行われました。
今日はこの事件をえがいた「平家物語」の「足摺」の段
を題材にした能「俊寛」をご紹介します。

時は平家全盛の平安末期
平家打倒の陰謀を企てた罪科により、
俊寛は藤原成経、平康頼とともに、薩摩潟
(鹿児島県南方海上)の鬼界島に流されていました。
都では、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった
徳子の安産祈願のため大赦が行われ、鬼界が島の流人も
一部赦されることとなりました。
成経と康頼は、島内を熊野三社に見立てて祈りを
捧げて巡っていました。ある日、島巡りから戻るふたりを
出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と見立てて酌み交わします。
ちょうどそこに都の遣いが到着、恩赦の記された
書状を渡します。しかし成経が読み上げるとそこには、
俊寛の名前だけがなかったのです。

驚き嘆く俊寛
舟にすがりついて自分も乗せてほしいと
頼む俊寛を独り残し、舟は都へと戻っていくのでした。