
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年に引き続き先月まで遠州公指導の茶陶をご紹介してまいりました。
今月から遠州公の旅日記として残る「東海道旅日記」に記される地の
今・昔をご紹介していく予定です。
遠州公は1622年9月43歳の時に上りの記、21年経て1642年64歳の時に
下りの記を書いています。
京都から江戸、江戸から京都までの旅路。
新幹線や飛行機を使って数時間で移動できる現在とは異なり、一日の移動時間約9時間半、
12泊13日という長い時間をかけて遠州公も旅をしました。しかしその道中を記す日記に
は、景色を愛で、旧友との別れや再会を想う心境が歌や詩でつづられており、
とても心豊かな旅であったことがわかります。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。
膳所焼茶入の代表ともいわれる「大江」 細かい轆轤目のついた紡垂形の体、肩には可愛らしい耳が付き、柿茶釉の上に黒釉一筋がめぐります。膳所焼に因んで近江国粟田郡瀬田村の大江なる地名を遠州公が銘につけました。内箱と挽家の蓋表には遠州公筆の「大江」の字が金粉字形されています。遠州所持の後、その遺品として松平備前守に譲られ、文化年間、伏見屋甚右衛門の取り次ぎで松平不昧公が所有しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
浅草寿町で呉服屋「ちくせん」を営む江澤秀治氏。
こちらは昔ながらの背負い(しょい)呉服の流れをくみ、お客様のお宅に伺い、
誂えるというスタイルです。
店舗がないぶんだけ、安くお客様に呉服を提供できるというわけです。
そして自分の好きな柄や色で着物を誂えていただけるのです。
お茶席にふさわしい色柄を相談できるのも嬉しいところ。
御尊父の代で「ちくせん」を開業し、28歳でその跡を継ぎました。
秀治氏二代で遠州流茶道を戸川宗積氏に学びます。

遠州流では毎年御家元が、干支やお題にちなんだデザインで新年と夏に袱紗を好まれます。
その袱紗を手掛けているのが江澤氏です。
その洗練されたデザインと色は遠州流の綺麗さびならでは。
茶会では他流の方の目を惹きます。
御先代・紅心宗匠の代から好みの袱紗が始まり、御先代の得意とされた大和絵をモチーフにした、たくさんの袱紗が生まれました。そして現在は十三世宗実御家元が毎年好みの袱紗をお考えになっていらっしゃいます。
宗実御家元のお考えになるデザインは、江澤氏の頭の中にはない新鮮さがあり、御一緒に翌年のデザインを考えるのはとても勉強になるし楽しみですとおっしゃる江澤氏。
「今年の袱紗は御題「語」にちなんでいくつか図案を御家元にご覧にいれたところ、その本の図案の中に、遠州公の遺訓から「春はかすみ」といれてはと御提案がありました。
ご相談に伺うとたくさんのアイデアがすぐにでてきますので、御家元の感性で常日頃からお考えをふくらませていらっしゃるんだなと感じます。」
ちなみに来年は年号が変わることから、これまで一色だった袱紗の色を二色に。そして平成三十一年という数字から三十一の七宝と菊をあしらったデザインになっています。これも御家元のアイデア。来年の袱紗を拝見するのが楽しみです。
干支や御題に因んだ図柄と、日本ならではの優しい深い色みとの組み合わせは、御家元と江澤氏の翌年への想いが詰まった一枚です。
ご機嫌よろしゅうございます。
三重県と滋賀県の県境に連なる鈴鹿山脈の裾野に
清水氏の「楽山窯」があります。

写真:清水久嗣氏
久嗣氏は初代・清水楽山、父・日呂志氏と数えて四代目。
平成四年に父・日呂志氏に師事しました。
初代楽山氏は三重県の万戸焼に、高麗の作風を加え高い評価を得ました。
そして韓国に焼き物の指導で出かけていた父・日呂志氏は
李朝の土質、作風などを研究し現地に窯を造り作品を制作しています。
韓国で作られたものと日本で焼いたものを区別するため
箱書は韓国で作ったものを「駕洛窯造」、日本で作ったものを
「楽山窯造」と書き分けています。
遠州茶道宗家11世宗明宗匠の代からお付き合いがあり、代々御家元の指導を
受けながら作陶、綺麗さびの美に通じる作品を多く生み出してきました。
遠州流は高麗茶碗を好んで用います。
そもそも高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた日常雑器の中から、日本の茶人が
お茶の心にかなうものを見出し用いたことに始まります。
日用品としては欠陥ともいえるひづみやしみをあえて楽しむ日本人の
感覚が高麗茶碗をつくりだしました。
「茶碗の中でも特に高麗物が好きですね。」と語る久嗣さん。
その高麗茶碗の特徴を研究し、作陶に取り組んでいらっしゃいます。
今日は指物師・井川信斎氏をご紹介いたします。

茶の湯においての指物師の役割は、水指棚や炉縁、八寸など木地のものを作ったり
書付用の内箱、外箱を手掛けます。
格式を重んじ瀟洒なデザインの遠州好みの棚や箱は、
材木の選び方・細工の細部に至るまで高度な技術を必要とされます。
水指棚では、桑や黒柿、紅梅や桜など様々な種類の木の性質と
特徴を見極め、それらを組み合わせていきます。
同じ材料でもその模様の出方は全く異なるので、同じ作品は二度とできないのです。
こういった作品を金釘などを一切使わず、ほぞを彫って合わせていきます。

また、遠州好みの箱は、紐通しが丸穴で袋底です。
袋底の中は紐が通るように溝が彫ってあるという大変手のこんだ箱なのです。
そして木釘も他流派よりも太く、木を割らないように木釘を打つ技術も必要です。
父・初代信斉氏は同郷の川上文斉氏に師事し、
茶の湯指物師としては四代目を継ぎます。
文斉氏の後、遠州流職方を引継ぎ、向栄会の設立当初から名を連ねました。
その父に18歳で師事し修業をはじめ、平成22年に二代信斎を襲名。
「最初は刃物を研ぐことからで、その後は箱かな。
全ての箱が出来たら技術的には他の物も出来るから。たかが箱されど箱。」
と指物師として出発した始めの頃をお話下さいました。
こういった遠州流独特の技術を保持し、後世に伝える職方の魂が吹き込まれた
作品達にじっと目をやると、その想いが物言わず語り掛けてきてくれるようです
ご機嫌よろしゅうございます。今日は掛物などの表装をする
表具師・表具久生氏のご紹介をします。

表具久生氏は慶応大学工学部中退後、父である表具師加麗堂三代目、
表具弥三次氏に師事。
表具家は、加賀百万石の十三代目・前田斎泰公から名字帯刀を許され、
「表具」を名乗るようになります。
以来、古書画、古屏風の修理を能くする伝統を受け継いできました。
表具師の仕事は、掛物をつくるうえでなくてはならない仕事ですが、
資料に残るのはその掛物の中身や、名物裂といった表装された中身
表具という言葉や表具師の名前自体、
記録上登場することはなかなかありません。
しかしながら、掛物の中身を引き立てる裂の組み合わせや、配色など
深い知識と高い技術を持つ表具師がいなければ、
掛物はその本来の価値を存分に発揮することはできず、
その印象は色あせてしまいます。
久生氏の父・弥三次氏は、遠州流茶道の点初などお祝いの際に決まって
「高砂」などの謡を披露してくださいました。これも掛物に謡の内容がよく使われることから始めたと聞きました。
床の間にかけられる掛物には、表立っては語られない表具師の
高い心意気が詰まった道具なのです。
ご機嫌よろしゅうございます。

本日から10月の向栄会展まで、お一人ずつ職方をご紹介していきます。
まず最初にご紹介する方は向栄会会長を務める藤森工務店の宇佐見忠一氏です。
藤森工務店は昭和の名工とうたわれた藤森明豊斉の意志を受け継いだ
数寄屋建築を専門とする工務店です。
護国寺・五島美術館・根津美術館・箱根彫刻の森美術館等などのお茶室を手掛けており、
現在の宗家道場に建てられた成趣庵も、御先代の意向を受けて
藤森工務店が施工しました。
宇佐見氏は、大学卒業後藤森工務店に入社。
遠州流茶道は宗積先生に師事し、数々の数寄屋建築に携わってこられました。
昨年の3月には上田卓聖氏に社長を一任し、
自身は会長として現在も後身の指導をされるなどご活躍中です。
綺麗さびを体現するには、お茶の道具だけでは完成しません。
遠州公の目指した茶の湯の世界を演出する、一番大きな装置が茶室といえます。
茶陶や掛物等たくさんの役者達が共鳴しあいながら、
茶室という空間の中でドラマチックな展開が繰り広げられ、
茶の湯の世界がより深く豊かなものになっていきます。
〇職方さんに質問!
数寄屋建築の数寄屋とはどういう意味でしょうか?
茶室を「数寄屋」とも言ったりしますがその定義は難しいものです。
建築の歴史の中でその意味合いも変化していきましたが、
「数寄」の言葉通り、「好き」に通じ、定石の建築方法と離れ、
その方のお好みで建てるといった意味合いもあります。
また数寄屋建築では角材ではなく丸太を主役とする建物でもあります。