東海道旅日記 下りの記【07】 10月8日『急がばまわれ』

2021-2-26 UP

忙しいとき、つい近道と思って行った道や片手間にやってしまったことが、 かえって時間を食う結果となることがあります。 そんなときのいましめに「急がばまわれ」という言葉が浮かぶでしょう。室町時代の連歌師、宗長が詠んだ

武士(もののふ)のやばせの渡り近くとも
 急がばまわれ 勢多の長橋

という歌が、「急がばまわれ」のことわざの発祥であると 江戸初期の僧、安楽庵策の記した『醒睡笑』に紹介されています。 東海道を進むには、矢橋のから船で向かう方が早いけれども、 天候によっては危険をともないます。 少々遠回りではあっても勢多の長橋から行った方が安全だということで使われたようです。

東海道旅日記 下りの記【06】 10月8日『近江八景』

2021-2-12 UP

湖を船ですすむ遠州一行。湖上からふと目をやれば、趣深い風景が広がっています。情趣を解さない、歌を詠まない供の者に、残念そうな遠州公でした。この近江湖東から八カ所の名所を、中国の「瀟湘八景」になぞらえて選んだものが近江八景です。
これまで、戦国時代から江戸時代にかけて選定されたといわれていましたが、近年では、「寛永の三筆」の一人近衛信尹が、琵琶湖湖畔の膳所城からその眺めを詠み選んだ歌が残されている資料が発見されました。近江の数ある名勝のなかから、瀟湘八景の情景を取り合わせて、膳所城からの眺望を和歌にして詠み、膳所城主に差し上げたという説が有力です。
江戸時代には日本の代表的な名所として多くの人に親しまれ、江戸後期浮世絵師の安藤広重の風景画により広く知られるようになりました。近衛信尹は公家の中でも最高位にある近衛家の中でも偉才人物で「寛永の三筆」数えられる能筆でありました。その養子にあたる信尋は、
やはり能書家で知られ、実は後水尾天皇の弟にあたる人物ですが、遠州公との手紙のやりとりが残っており、当代きっての文化人同士の交流が伺えます。

東海道旅日記 下りの記【05】 10月8日

2021-2-5 UP

日記のはじめに登場するのは江月宗玩。この江月宗玩禅師は遠州の5歳年上の大変親交の深い人物の一人です。10月8日江戸に向かうことになった遠州公に餞別の志を一偈にして、手紙を添えて送っていますがその翌年にはお亡くなりになっています。津田宗及の子。春屋宗園の法を継ぎ大徳寺、博多崇福寺の住持となります。茶人として名を馳せた父・宗及由来の名物などを見聞きして育っており江月を開山とする大徳寺龍光院は、江月由来の名物が数多く残っています。

江月といえば、朝廷が僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効とした紫衣事件が有名です。幕府に対し抗議をした結果、配流となった沢庵宗彭・玉室宗伯に対して、江月は大徳寺の存続のため許されます。当時、その人となりからも一行物が大変に人気のあった江月ですが、一人罪を免れたとの汚名を受け、当時の人々はその墨蹟を破り捨たとも記されています。しかし実際には三年の間、京へは戻らず江戸にとどまり、配流となった二人の放免に尽力したと思われます。