膳所焼

2019-3-22 UP

膳所焼の歴史

膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことからその指導を受け茶器に力を注ぎました。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。

膳所焼の特徴

この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用されていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。

膳所焼と小堀遠州

本阿弥光悦が遠州の指導を受けて作ったといわれる茶碗「膳所光悦」。この茶碗は寛永十三年(1636)徳川三代将軍家光公を迎え、遠州公が品川林中に新しく完成した御茶屋披露のときに使用されたものです。半筒型をした本焼きの茶碗で、楽焼の柔らかい土で発揮された光悦の箆さばきが膳所の硬い土をもっても冴えている点は見事です。
本阿弥光悦は、遠州公の注文により遠州好みの茶陶器を多く制作しており、膳所の土を用いて作ったことからこの名前がつきました。将軍献茶の茶会に用いられた「膳所光悦茶碗」二碗で、遠州公ののち馬越恭平の蔵となったものとMOA美術館に所蔵されているものが伝来しています。