信楽焼
2019-1-7 UP
信楽焼の歴史
信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。
信楽焼の特徴
信楽焼はその素朴さが好まれ、茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。信楽焼に使われる土は、琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
信楽焼は珠光の「心の文」に「ひせん物、しからき物」とあるように、珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が茶の湯で使われていたことがわかります。備前ともに信楽の水指の登用は早く、15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。
信楽焼と小堀遠州
信楽の焼き物も遠州公が指導したといわれている窯の一つです。遠州信楽は漉土を用い肉が薄く精巧を極めているといわれています。代表的なものに長辺二方に浅い切り込みをつけ、高台は三方に切り込みをつけた割高台風の筆洗型茶碗「花橘」という、切形と呼ばれる見本をもとに焼かれた茶碗があります。この茶碗は高取や志戸呂などにみられる形と同じで、平天目形の一部を押さえ込んだ姿であり、「前押せ」といわれています。遠州信楽の特徴である漉し土で作られたものの中でも、極めて薄く作成された作品です。 信楽の土の味わいをいかしつつ、綺麗さびの瀟洒な美意識が投影され、洗練された作品を生み出しました。
