志戸呂焼

2018-5-1 UP

志戸呂焼の歴史

島田市金谷に位置する志戸呂窯の歴史は古く十二世紀後半の平安時代には施釉をしない
山茶碗などがつくられました。その後は一時途絶え200年ほどの時を経ます。瀬戸から美濃へ陶業の中心地が移っていった時代を俗に「瀬戸離散」と呼んだりしますが、この時期に金谷にも陶工が移り住んだとされ志戸呂も復興。古瀬戸に似た作品がつくられました。

その志戸呂の全盛も平和な時代の到来と本家の瀬戸が力を盛り返し、15年ほどで終わりをつげます。天正十年(1582)には駿河国を領有した徳川家康公が美濃の陶工加藤庄右衛門影忠を招いたり、天正十六年(1588)には陶業差し許の朱印状を与えて優遇し、志戸呂の窯を奨励しました。また、尾張瀬戸地方の陶工の移住によって、志戸呂焼の生産が本格的に行なわれたと考えられています。享保年頃より「志戸呂」或は「質侶」の印を用いるようになりました。

志戸呂焼の特徴

現在も静岡の伝統工芸品に指定されている志戸呂焼の特色は、主要製造地域で採れる粘土が鉄分の多い土のため、茶褐色の地肌に黄色味をおびた渋味のあるものと、深みのあるあめ釉です。釉薬には主要製造地域で採取される、「丹石」(にいし)と呼ばれる鉄分を多く含む赤い石が使われ、これも志戸呂焼の大きな特徴となっています。また、土質は硬く焼き締まり湿気を嫌う茶壷に最適であると重用され、献上茶の茶壷に使われ、志戸呂焼の茶壺は将軍家の代々の献上品とされてきました。

志戸呂焼と小堀遠州

寛永年間(1624-1643)に小堀遠州公が茶器製作の指導をされ、優れた作品をつくりだしました。加藤庄右衛門から名を五郎左衛門に改めた初代の弟子が五郎左衛門を襲名してその仕事を
担当したようです。しかしながら明らかに遠州好を類推できる茶入及び茶碗は数が多いとはいえません。その中で、茶入「初桜」はいかにも遠州の好みを投影した作品といえます。志戸呂独特の雰囲気を表す渇釉と濁黄色を交えた釉薬。そしてすっきりとした肩の稜線と腰の柔らかな曲線。松平備前守の箱書

宿からや 春の心もいそくらむ
ほかにまたみぬ 初さくらかな

が記されています。もう一つ、大正名器鑑所載の「口廣」茶入には

この壷を 何とか人はとうとうみ
志戸呂もとろの茶入なるらむ

という歌を松平不昧が箱に書付けています。