薩摩焼

2018-5-5 UP

薩摩焼の歴史

薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529~1598)で朝鮮出兵した薩摩の島津義弘が80人余りの朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。陶工を乗せた三隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着し、それぞれの場所で窯が築かれたといわれています。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼、種子島系などに分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。

薩摩焼の特徴

渋い趣の器があるかと思えば、華やかな金襴手や庶民ための民芸などもあり、多様なスタイルの焼き物が焼かれてきた薩摩焼。薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。

薩摩焼に刻まれた記憶

司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。

薩摩焼と小堀遠州

遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。現存が確認されているものは数点で、甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」が有名です。茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。