古曽部焼

2019-5-21 UP

古曽部焼の歴史

幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに古曽部焼があげられています。伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。そのため遠州以後の窯と考えられています。寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。「古曾部」の印を権十郎蓬雪侯の筆とされていますが定説がありません。