備前焼

2018-12-10 UP

備前焼の歴史

備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。

備前焼の特徴

備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。

備前焼と小堀遠州

遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。