朝日焼

2018-12-3 UP

朝日焼の歴史と小堀遠州

京都の南、宇治川の流れと山々の緑。豊かな自然に恵まれた宇治は平安時代、貴族の別荘地でした。平等院鳳凰堂でも知られるこの地ですが、京都のにぎやかさとは異なる穏やかな時の流れを感じます。宇治川の朝霧に守られながら栽培される抹茶は、栂尾と並び第一の産地に。天下人達が宇治の茶を好んで求めました。
そしてこの宇治川の源流となる琵琶湖から流れくる土が粘土となり、朝日焼に使われる陶土となりました。

宇治此の頃は茶の所となりて
いづこもいづこも皆(茶)園なり
山の土は朝日焼の茶碗となり
川の石は茶磨となる
竹は茶杓茶筅にくだかれ
木は白炭に焼かれて茶を煎る

と江戸時代初期の北村季吟が、山城の名所名勝記「兎芸泥赴」に記しています。宇治という土地で「茶」というものの存在がいかに重要であったかが伝わります。

朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。当時、茶碗に印を残すという行為は珍しかったようです。朝日焼の特徴として、褐色の素地に黒斑を伴う釉肌をもち、箆目・轆轤目・刷毛目が景色として表れる点が挙げられます。

また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。そしてこの地で焼かれた朝日焼は、後に「遠州七窯」の一つとして数えられるようになりました。