赤膚焼
2019-5-23 UP
赤膚焼の歴史
赤膚焼(あかはだやき)は奈良市五条町でつくられる陶器で、五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられていました。天正年間には、郡山(こおりやま)城主・大和大納言秀長(豊臣秀長)が尾張・常滑の陶工である与九郎を招いて開窯したのが始まりであるといわれていますが、江戸中期までは詳しいことはわかっていません。天明年間(1781-1789)には京都の陶工・治兵衛らが五条山に移り築窯し、寛政年間(1789-1801)には郡山藩主・柳沢堯山(ぎょうざん)の後援を得るようになりました。堯山没後は一時衰微しますが、天保期(1831-1845)に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、写物を焼成し再興しました。
赤膚焼の特徴
「赤ハタ」印は亮山から拝領したもので、「赤膚山」の印は以前から使われていたとされています。赤膚山とは窯のある丘の名称です。その後、治兵衛窯では仁清写しをはじめとする各種の写し物が盛んにつくられるようになりました。寛政以降は、西大寺の大茶盛などによって広く知られるようになり、奥田木白が名をあげました。作品には「赤膚山」や「木白」の印が捺されています。現在見られる白萩釉調の作風も木白に由来するものです。
今日では、赤膚焼は五条山の古瀬治兵衛堯三を元窯として複数の窯が続いています。俗に遠州七窯の一つといわれますが、源流としての茶陶の生産はさらに古くから行われていたと考えられます。現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼です。
赤膚焼と小堀遠州
遠州七窯に数えられてはいるものの遠州公以後の窯と考えられています。遠州公との関連は明確ではありませんが、秀長に仕えた父のもとで青年期を過ごされた大和郡山の窯であることから、何らかの関わりがあったのではないかと思うと、大変興味深く感じます。
