高取焼

2018-6-1 UP

高取焼の歴史

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山を月俸七十人扶持、寺社格という高禄で迎え、直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。八山は日本で高取八蔵と名乗ります。この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて隣あった場所に位置します。その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に小石原村鼓釜床に開窯。この地が山奥で殿様がお越しになるには難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。

高取焼の特徴

高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた八山の試行錯誤の時期と思われます。内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって続いていたと考えられています。)主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」様式がほぼ完成します。

高取焼と小堀遠州

高取焼は遠州公の指導を受けた窯の一つとして挙げられます。これは藩主黒田忠之の茶の湯への傾倒のみならず、茶の湯の持つ政治的価値と、自国の高取焼の名を高めることが御家の存続に有効であるとの考えから、当時の茶の湯の第一人者であった遠州公に指導を仰いだと考えられます。忠之公は焼きあがった高取茶入を相当数遠州公の元へ送り、その監修を依頼しています。そして遠州公は上中下などの格付けと、特に良いものについては蓋袋を誂え、よそへ進物として使えるかどうかなどの助言も言い添えています。その中でも「横嶽」はもっともよい仕上がりで、以前に焼かれた「秋の夜」「染川」より優れているので、割捨てなさいとまで忠之宛ての書状に記しています。この「横嶽」についての書状が送られているのが、正保三年。翌正保四年(1647)2月6日遠州公は亡くなっています。遠州公没年の間際に遠州高取が様式的に完成の域に達したと考えられます。