〇17日
夜中に宿を出て、急ぎ屋敷に向かう様子が記されています。
箱根の山を下り、小田原、大磯と進んで17日の正午で、
この日記は終わっています。
是よりこゆるぎ
のいそぐほどに もしほぐさ かきすて
侍る也
日記の終わりを読むと、屋敷についてからも、膝を休める間もなく
多忙な公務がまっていることが伝わってくるようです。
さて、上り、下りとご紹介してまいりました「旅日記」も、
ついにゴールを迎えました。
そして2013年よりお届けしてまいりましたメールマガジンも、
誠に勝手ながら諸般の事情により、配信サービスを
しばらくの間休止とさせていただくことになりました。
配信再開の際には、改めてご案内申し上げます。
今後はFacebookなどを通じまして、皆様に情報をお届けしてまいります。
引き続きご覧いただけますと幸いです。
尚、ご登録いただいておりましたお客様の個人情報につきましては、
メールマガジンサービス休止後に責任を持って削除させていただきます。
最後にご登録いただいておりました皆様へ、長きにわたりご愛読いただきまして心より御礼申し上げます。
〇浮嶋ヶ原
いよいよ「下り旅日記」も最後に差し掛かりました。
16日、宿を出て浮嶋ヶ原を通ります。
をろかなる 身はうき嶋が はらはらと
おつるや老の 涙なるなん
浮世の定めなき身の、老いゆく自分を
浮嶋ヶ原の名にかけて歌を詠む遠州。
60を過ぎた体にひびく旅の疲れからか、
哀愁が感じられます。
ちなみにこの地は、富士市から沼津市にまたがる低湿地。
富士川の戦い(1180年)の際、平維盛の軍勢が
水鳥の羽音に驚いて逃げた所で、
現在放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、
そのシーンがコミカルに描かれていました。
16日
吉原を出て 浮嶋ヶ原にさしかかる
をろかなる 身はうき嶋が はらはらと
おつるや老の 涙なるなん
沼津を過ぎて、伊豆の国三嶋の宿に到着し休憩。
今日は天候もよく、山も穏やかであるということで
箱根路におもむく。
険しい斜面を登り、大きな岩盤から海上を見れば、
波がたち、沖には多くの釣舟が浮かんでいる。
はこね路を ゆくてに見れば 伊豆の海の
浪まにうかぶ あまのつりふね
次週につづく
更に坂を登って、山を見れば、梢は散りつくして、
様々な木の種類の葉がここかしこの木の
根元に散り集まっている。
その様子はさながら錦の布を敷いたようであった。
いろいろに そめし木の葉を 木のもとに
あらしのしける 錦なるらし
箱根の宿に到着して一泊。
十七日 仮寝をして、夜が明けないうちに
山を出発する。
人に見せるつもりもなく、
旅のすさびにでもなればと書付けてきたが、
幾山を越幾旅の宿を数えきたこれまでを想うと、
「道の日記」に似たようなものである。
これより急ぐので、ここに書きおくことにする。

田子の浦では、海女が汐を汲む様子が記されています。
「塩焼き」は田子の浦の名物でもあり、
和歌にも絵画にも多く取り上げられています。
古くは海藻に海水をかける「藻塩焼き」
とよばれる方法が使われていましたが、
やがて、砂を利用して濃い海水を採取し
煮詰める方法が生まれました。
葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の中に
「東海道江尻田子の浦略圖」があります。
手前の海には漁師らしき人物が船上で漁をし、
奥の浜には塩田が広がり、
大勢の人が塩づくりの作業をしています。
富士の山にむかう途中、江月和尚からいただいた
一偈の一、二句目が脳裏に浮かぶ。
東行斯日巳初冬
為雪吟鞭指士峯
とあり、つくづくと山を見てみれば、真白い雲が群れて雪の色を奪おうとも、また遮ろうとても、その雪の白さにはかなわない。すそ野をめぐる高嶺の煙は、風にまかせてたなびいている。何か言おうと思うけれど、言葉は雪のように消えてしまい、ただただ茫然と佇むばかり。
つげやらん ことの葉もなし
年経ても まだみぬふじの 雪のあけぼの
と詠めば、傍らの人
ふじいづこ 雪にゆづりて やまもなし
と続ける
この山に心をよせて時がたち、吉原の里に留まり一泊。
15日 早朝に出発し、府中を過ぎて清見が関にさしかかる。浪の音は閑で、月は山の端に残り、霧間にうかぶ三保の松原を見れば、広がる松原と海岸の見事なこと。
(清見が関の関ではないが)心を関とめるものはない。
月はまだ 残るきよみが せきの戸を
あけてももらん 三保の浦松
次第に夜が明けていく。由比の塩屋を過ぎる。まだ朝早いというのに、汐を汲む海女が所々に出で立っている。袖の濡れるのも厭わずに我先にと汲む様子を見て
かかるこそ うき身のわざと くむ塩に
ぬるるをいとふ あまのそでかは
と詠む。田子の浦に塩を焼く煙が立っている。
いまさらに われもおもひをするがなる
しほやく田子の 浦のけしきは
現在の藤枝あたりに築かれた田中城の城主・松平忠晴に手紙を送った遠州公。田中城は、湿地を利用して同心円状に4重の堀を配した珍しい城郭です。そして、徳川家康が鷹狩りのために
良く出かけた先が、駿府に近いこの田中城でした。『徳川実録』には、鷹狩のため田中城に滞在中の家康のもとを京の豪商だった茶屋四郎次郎が訪問。その際に京で流行っている料理の話を聞き、実際に調理させました。日頃節制心がけている家康にしては珍しく大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚をごま油であげ、にんにくをすりかけたものを機嫌よく、いつもより多く食べ、腹痛と食あたりに。これが亡くなった原因ともいわれていましたが、実際の死因は
胃がんという説が有力です。
さやの中山にかかるとおもいがけず鹿の声が嵐と共に聞こえてくる。
時雨つる 嵐の雪間 月さえて
鹿のねこゆる さ夜の中山
此の山の景色を言い表そうにも言葉がたりない。大井川にかかると、夜も明け始めた。嶋田を経て、田中の城主は私が親しくしている方だったので、手紙をしたためて送る。岡戸の里を過ぎて、宇津の山にかかる。
見ればみし 人ならねども ふみ分て
道はまよはぬ うつの山ごえ
さらに進んでいき、丸子の里に到着した。ここで宿をとる。