5月 20日(水)遠州流茶道の点法
両名物(りょうめいぶつ)
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶で使用する茶入には名物とよばれる
ものがあります。
丸壺や茄子、文琳等の 名物茶入は盆にのせて飾り
お点法でも盆にのせて使用しますが、
肩衝など背丈のあるものや、大振りのものは
点法の時は盆にのせたままでは不安定なため、
盆にのせずに扱います。
その際は初入りでは、盆にのせた状態で飾っておき、
後入りで濃茶の点法の際に盆から外し点法します。
そして茶碗も名物並の道具を使う場合
行われるのが、この両名物という点法です。
茶碗に使い袱紗を折って入れ、「へだて」とします。
その上に茶入をのせて、この状態で
棚の上に飾り付けお点法を始めます。
この点法は棚に茶碗と茶入を飾りつけるため
小間では台目、広間では棚を使用します。
むかしをば 花橘のなかりせば
何につけてか 思ひ出まし(「後拾遺和歌集」 藤原高遠)
花橘がもしなかったならば、何を手がかりに、
昔を思い出せばよいのか、いや思い出せない。
この歌の銘のついた茶碗があります。遠州蔵帳所載の信楽茶碗です。かけ釉のビードロが見事で小堀遠州の切形をもとに作られたと伝えられいわゆる筆洗形をしており、長辺二方に浅い切り込みをつけ高台は三方に切り込みをつけた割高台風の茶碗です。
ほのかに香る花橘の香りが、昔の想い人を思い出させる。橘は蜜柑の仲間で、「常世の国」の不老長寿の実のなる瑞祥の木とされていました。この橘の香りと懐旧の念を定着させた歌が
さつき待つ花橘の香かげば
むかしの人の袖の香ぞする(「古今集」読み人知らず)
でした。その香りを嗅いだ途端、無意識に人を過去のある場面に引き戻す。そんな甘酸っぱい切なさの感じられる橘の歌です。
4月29日(水)遠州流茶道の点法
風炉の設え
ご機嫌よろしゅうございます。
4月も終わりに近づき、5月になると茶の湯の設えが風炉に変わる
季節となります。
炉に塞ぎをして、風炉を壁付きの方へ置き、
火気をお客様から遠ざけます。
炭の寸法も炉に比べて細く短いものを使用し、
風炉は季節の変化に伴って
土風炉・唐銅の前欠・切合せ・鉄風炉
と使い分けていきます。
灰型も昨年ご紹介しましたように、
季節や用いる風炉、また祝儀等によって
古くは三十六種ありました。このうち代表的な
三種を用いるようになっています。
窯は炉用の大ぶりなものから風炉にかける
小ぶりのものにかえ、
柄杓も風炉用の小さめの合のものに。
道具組も初夏の清々しさが感じられる設えを意識します。
4月 8日 (水)遠州流茶道の点法
「二服点て」
ご機嫌よろしゅうございます。
お茶を飲み終わり
「亭主から今一服いかがですか?」
と尋ねられた際、是非もう一服頂きたい
と所望することが出来ます。
その際亭主は二服目をお客様にお点てします。
これが「二服点て」のお点法です。
お客様は所望の際
「大変美味しく頂戴しましたので、
今一服お願いします。」
と返答します。この返事、以前は
「とてもの儀にて、今一服」
と答えたのだそうです。
武家茶道らしいですね。
炉の時期では、中仕舞いを解き、
中水をした後なので、お湯を一柄杓茶碗に汲んだら
湯加減が悪くならないように
釜の蓋に茶巾がのった状態のまま、
すぐに蓋をしめます。
また水指の蓋も炉の時期は
空けた状態では中の水が見え、寒々しいので
一度閉めて点法を行ないます。
4月 6日 (月) 青柳(あおやぎ)
青柳の 糸よりかくる
春しもぞ 乱れて花の ほころびにける
ご機嫌よろしゅうございます。
桜の美しい姿を愛で、春の季節を満喫する
頃ですが、同時に青々とした柳の揺れる様を
眺めるのも楽しいものです。
この和歌は
古今集 春上 紀貫之(きのつらゆき)
の和歌です。
青柳が糸を縒(よ)り合わせたように
風になびいているこの春に、
一方では桜の花が咲き乱れていたことよ。
柳と桜は共に都の春を彩る代表的なもので
風になびく青柳の細枝と、咲き乱れる桜の花の
緑と紅の色の対比が、都の春の風景を色彩豊かに
とらえた和歌です。
禅語にも「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」
という言葉があります。
瀬戸間中古窯に遠州公が「青柳」と銘命した
茶入があります。
釉薬の流れがまさしく青柳の細い枝のような景の
茶入です。
3月 30日(月)桜ちるの文
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公所持の掛物「桜ちるの文」
をご紹介します。
定家筆のこの掛物には
前十五番歌合にある紀貫之の
桜散る木の下風は寒からで
空に知られぬ雪ぞ降りける
の歌と凡河内躬恒の
我が宿の花見がてらに来る人は
散りなむ後ぞ恋しかるべき
の二首の上句が書かれていることから
「桜ちるの文」と呼ばれるようになりました。
遠州公は定家を崇拝し、その心も自分のもの
とするため定家様の書体をしたためたことは
よく知られています。
寛永13年、江戸品川林中のお茶屋が完成し
遠州公は三代将軍徳川家光に献茶をしました。
この際に床の間に掛けられた掛物が、
この「桜ちるの文」でした。
この茶会によって遠州公が将軍茶道指南役として
天下一の宗匠として認められた、
最高の晴れ舞台となったのでした。
3月 27日 遠州公所縁の地を巡って
伏見での出会い
茶碗「六地蔵」と井戸茶碗
ご機嫌よろしゅうございます。
六地蔵の地で出会ったものの一つに
小井戸「六地蔵」があります。
遠州公が伏見六地蔵で見出したことから
名付けられた茶碗で、小井戸の代表的な名碗です。
遠州公は常に傍らに置いて愛用したといわれています。
後に末弟の仁衛門左馬助政春に渡り、京都の小堀家に
代々伝わってきましたが、幕末になって売り立てられ
以後所有者を転々とし、
現在は泉屋博古館に所蔵されています。
さて、一井戸・二萩(楽)・三唐津
などとも言われるように、
茶碗の中でも井戸は筆頭に挙げられるものです。
井戸茶碗は高麗茶碗の一種で、朝鮮王朝時代の初期から
中期頃にかけて作られ、室町時代以降に
日本に伝わったとされています。
大井戸、小井戸、青井戸などの種類があり
なかでも大井戸は名物手とも呼ばれ
大振りでたっぷりとした茶碗です。
意外なことにこの大井戸の茶碗、
遠州公は所持していませんでした。
それは大井戸は大大名に、という
茶の湯の第一人者としての謙虚さと、
粋な考えからであろうと思われます。
行き暮れて木の下陰を宿とせば
花や今宵の主ならまし
中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」という銘のものがあります。「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた能の一つです。平清盛の末弟であった忠度ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を弔うために植えられた木でした。そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ「行き暮れて」の歌を、「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)とされた心残りを語るのでした。風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に調和した名曲です。この忠度が薩摩守だったことから細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆と言われています。
2月 18日(水) 蓋置
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶で使用する蓋置は基本的に青竹の
「引切り」を使用します。
(書院で棚を使用する場合などは
砂張などの蓋置を使用する場合もあります。)
これは、その点法一度きりのために用意された
ことを示し、その竹の青さが「清浄」を表します。
これは本来木で拵えたものの多くに当てはまることで
茶筅や柄杓、黒文字なども、使い切りとして
作られたものでした。
竹蓋置は、武野紹鴎が節合一寸三分に切り、
面桶の建水とともに水屋に使っていたものを、
利休が一寸八分に改めて茶席に使用したといわれています。
蓋置に使用される真竹は、一本の竹が2~3m程で
その内節は2~3個ほどしかありません。
普段何気無く使用している大変貴重なものです。
2月11日 (水)茶入の巣蓋
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年、3月15日にご紹介した「在中庵」茶入の
巣蓋にこんなエピソードがあります。
巣蓋とは象牙の真ん中に通る神経を景色にして
作られた茶入の蓋です。
当時象牙自体貴重でしたが、この「巣」を景色にした
ものはとりわけ珍重されました。
利休から遠州公の時代、この「巣蓋」はまだ存在使用されず、
織部が最初に取り入れたと、遠州公が語っています。
そして、遠州公は中興名物茶入れを選定し、
歌銘をはじめ、箱・挽家、仕覆といった次第を整えていく際に、
牙蓋も一つの茶入れに何枚も付属させており、多様性をもたせる為に
巣のある蓋を好んで用いました。
牙蓋の景色として巣を取り入れたことにより、
巣を右に用いている遠州公に
前田利常公が理由を尋ねたところ、
「客付き(点前座からみて、お客様からみえる方向)
の側に景色を用いるのが自明の理」
と答えたそうです。
遠州公のお客様への配慮、
「綺麗さび」の美意識を感じるお話です。
このお話を知ると、美術館などで
遠州公所縁の茶入が展示されていると
つい巣蓋の巣の位置に目がいってしまいます。
日々の稽古でも蓋のの向きに注意して
お稽古なさってください。