浜松城主

2020-3-27 UP

浜松
これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。

清見寺

2019-11-2 UP

26日。
昨日とは打って変わって晴れ間となり、
蒲原の宿を出発。清見が関に差し掛かります。
清見が関は天武天皇の頃東国の敵から駿河国を
守るための関所として置かれました。
その関を保護する目的で置かれた清見寺は、
駿河湾、伊豆の連山を望む景勝地であり、
約1,300年の歴史を持つ臨済宗の寺院です。
家康が今川義元の人質だった頃、教育を受けた
場所としても知られ、江戸時代には朝鮮通信使
の宿泊所としても使われるなど歴史深い寺社です。
遠州公の作った茶杓「清見関」はこの地を訪れた
際に作ったもので、筒に
「清見関荒垣竹東行之次作之」と記され、
『遠州蔵帳』や『雲州蔵帳』に記載があります。

古今伝授

2019-10-17 UP

まち古今伝授の
三島から沼津へ移動。一行は黄瀬川のあたりを進んだと考えられます。
この地域を流れる黄瀬川は、いろいろな伝説の多い地でもあります。
室町時代の連歌師飯尾宗祇は、1471年(文明3)この地で戦闘のため陣を張っていた武将・
東常縁(とおのつねより)から古今伝授を受けたといわれています。
「古今伝授」とは「古今和歌集」の解釈等を伝えていくもので、平安時代末、藤原基俊か
ら俊成・定家と代々二条家に伝えられ、その後東常縁に伝わりました。
公家の三条西実隆も宗祇から古今伝授をうけ、その実隆に武野紹鷗が和歌を学びます。
そして和歌の心が茶の湯の中にも影響を与えていくこととなります。

水口城

2015-9-18 UP

水口は都から伊勢へ通じる交通の要所で中世後期にはすでに町並が形成されていました。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、水口の地は徳川氏の直轄地となり、東海道の宿駅に指定され、徳川家康も度々この地を通行し、水口の寺院などに宿泊していたといいます。三代将軍徳川家光は京都への上洛に先立ち、寛永9年(1632)遠州公を作事奉行に任じて、上洛する際の将軍専用の宿館として、東海道の要衝の地である水口に豪華な本丸御殿を持つ城を築かせます。家光の威光を示すものであったため、遠州公は延べ10万人の大工を動員し、3年がかりで完成しました。将軍家の宿館ふさわしく数寄をこらしたものでその構造は二条城を小さくしたものでした。この御殿は徳川家光上洛の帰途に一度使われただけで、後に水口藩が成立、その居城となりました。寛永十年はこの水口城の他にも、仙洞御所泉水奉行伊庭御茶屋作事奉行、二条城本丸数寄屋作事奉行にあたり、多忙を極めていた時期です。遠州公はこの水口城の現場で直接指揮をとってました。

所在地 滋賀県甲賀市水口町本丸4−80

史跡 水口城跡
史跡 水口城跡

南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭

2015-9-4 UP

各地の寺社などでは、その庭を「遠州作と伝えられています」と解説されていることが多く見受けられます。その全ての真偽は定かではありませんが、それだけ遠州公の当時の影響が強かったことがわかります。そのような「伝遠州作」の庭の中で、この南禅寺は、残された文献等から遠州公作と確認できる数少ない作品の一つです。借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、別名「虎の子渡し」と呼ばれ、左端の大きな親虎とその横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すといわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、他の児虎を食べてしまうそうです。そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて渡るのだそうです。母虎の子を児を想う気持ちが表れた優しく雅雅な印象の庭園です。

南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭
南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭

女御御殿

2015-5-22 UP

元和四年(1618)遠州公40歳の折、秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公はその女御御殿の作事奉行となります。この作事は、何人かの奉行の内の一人として一部分を割り当てられたのではなく、最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価されての任命といえます。

元和六年(1620)に和子は入内し、後水尾天皇の女御となります。寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には譲位されます。

遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も奉行しています。またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、寛永十年から十三年まで三年を費やしました。この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます。

現在、京都 大覚寺になる宸殿(重要文化財)は、女御御殿を移築したものと伝わっています。

所在地 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4 大覚寺

蒼天庵(そうてんあん)

2014-9-7 UP

9月7日 蒼天庵(そうてんあん)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は名古屋の「蒼天庵」にて茶会が行われます。

この茶室は宗実お家元が監修された茶室で
中京地区における遠州流茶道研修道場としても位置付けられております。
施主は家元直門の鈴木宗霄氏で、
建造にあたっては、御家元とご一緒に茶室に使用される木材から露地の
石に至るまで吟味されています。

三好市工業地区に位置する内藤商会の
工場最上階に作られたその茶室は、
室内でありながら、 そのスケールを越えて
外へつながる広がりを感じさせ
ビルの上ながら、露地を一望でき、
茶室の庵号も「蒼天庵」と
どこまでも続く空の青さを想起させてくれます。

四畳半台目の小間「蒼天庵」に、
各十畳の二間続きの広間
さらに厨房や、控えの間などが設備され
この度新しく70人程が研修できるホールが完成しました。

さらに映画「父は家元」でも放映されていましたが、
お家元が小間に竹型の照明を考案され、
茶室の雰囲気を壊すことのない、調和のとれた
灯りの中お茶を楽しむことができます。

本日の茶会は、一般の方にもご参加いただけますので
ご興味のある方は、事務局まで
お気軽にお問い合わせください。