丹波焼
2019-3-26 UP
丹波焼の歴史
六古窯の一つに数えられる丹波も、遠州公が関わった窯の一つです。その発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。初期の頃の丹波焼は、桃山時代まで穴窯を使った焼き締めの紐作りで、窯の中の炎と灰による自然釉の光沢を帯びた重厚な美しい、口の大きい甕などを主に制作しました。桃山の終わり頃には釉薬も使われだし、ドベと呼ばれる泥を塗って釉を掛けたような風情のものも焼かれます。慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)も取り入れられました。江戸時代に茶陶も焼かれ始めましたが、伊賀焼や、信楽、等の他の窯場に比較すると作風は強い個性を示してはいません。
丹波焼の特徴
丹波焼は他の古窯と比べると若干異なった歴史を歩んできました。窯のつくりも非効率、生産性の薄いものでした。しかしこの原始的で不合理な窯であるがゆえに、計算では作りえない自然の傑作が創出されたことも事実です。また、元々丹波の土は鉄分を多く含んだ酸性土で、釉薬が掛かりにくく、そのために焼き締めによって土味を引き出したのでした。この丹波焼の渋さを醸し出す土は、耐火度や粘り、白さなど好条件は一つとしてなく、どちらかといえばつくりにくい土。その決して良質とはいいがたい陶土と向き合ってきた陶工の苦労はどんなに大きかったことでしょう。しかしながら土の良し悪しなどといった考え方は人の勝手な言い分であり、丹波焼を激賞した柳宗悦は「上下を定める人間の分別の勝手さを考えざるを得ぬ、下品化生の人間の救いを契う他力門のあることを忘れてはなるまい。丹波焼は余すところなくその他力美を示している。その底知れぬ美しさは人間の不合理性、自然の合理性に遠く由来してくるのである。」と評しています。
丹波焼と小堀遠州
丹波焼がしばしば茶会記に記されるようのなるのは寛永年間にはいってからで「宗甫居士道具置合拵」には寛永七年五月二十三日「一茶碗 丹波焼 一水指 丹波焼」とあり翌八年九月四日に「一水滴(水滴型茶入) 丹波焼」とあります。 さらに同月二十二日に「一 茶入 生埜」とあります。この時期に丹波のどこかの窯屋と遠州との間に特別な関係があったことを物語っています。とくに「生埜(いくの)」茶入(湯木美術館蔵)は、丹波焼茶入第一の名作と評価が高く、優しい丸みを帯びた輪郭とちょこんとついた耳が印象的です。遠州公との関わりができるようになってからの茶陶丹波焼は、ほとんど黒飴釉や茶褐色の釉のかかった施釉陶で、瀟洒な作行からは他の窯同様「綺麗さび」の美意識を強く感じます。
能舞台の大甕
丹波焼の大甕が意外なところで使われている場所があります。それは能舞台。兵庫県篠山市の春日社の能楽殿は、丹波篠山藩主青山忠良が文久元年(1861)に奉納したもので、そのとき丹波の陶工に焼かせたのが七個の大甕です。「立杭釜屋村 源助作」とへら描きされています。春日神社の能楽殿は、“箱根より西では最も立派”と言われているそうで、この舞台を使って、兵庫県能楽文化祭が頻繁に行われているのだそうです。舞台の音響効果を高めるために大甕が床下に置かれていて、中央に置かれた大甕はシテ柱の方向に口を向けています。足で床を踏み、音を発する。これも太鼓や笛と同様、舞の音楽として使われる効果で、この演出に丹波の大甕が一役買っています。
