備前焼の歴史
備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。
備前焼の特徴
備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。
備前焼と小堀遠州
遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。
朝日焼の歴史と小堀遠州
京都の南、宇治川の流れと山々の緑。豊かな自然に恵まれた宇治は平安時代、貴族の別荘地でした。平等院鳳凰堂でも知られるこの地ですが、京都のにぎやかさとは異なる穏やかな時の流れを感じます。宇治川の朝霧に守られながら栽培される抹茶は、栂尾と並び第一の産地に。天下人達が宇治の茶を好んで求めました。
そしてこの宇治川の源流となる琵琶湖から流れくる土が粘土となり、朝日焼に使われる陶土となりました。
宇治此の頃は茶の所となりて
いづこもいづこも皆(茶)園なり
山の土は朝日焼の茶碗となり
川の石は茶磨となる
竹は茶杓茶筅にくだかれ
木は白炭に焼かれて茶を煎る
と江戸時代初期の北村季吟が、山城の名所名勝記「兎芸泥赴」に記しています。宇治という土地で「茶」というものの存在がいかに重要であったかが伝わります。
朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。当時、茶碗に印を残すという行為は珍しかったようです。朝日焼の特徴として、褐色の素地に黒斑を伴う釉肌をもち、箆目・轆轤目・刷毛目が景色として表れる点が挙げられます。
また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。そしてこの地で焼かれた朝日焼は、後に「遠州七窯」の一つとして数えられるようになりました。
ご機嫌よろしゅうございます。
浅草寿町で呉服屋「ちくせん」を営む江澤秀治氏。
こちらは昔ながらの背負い(しょい)呉服の流れをくみ、お客様のお宅に伺い、
誂えるというスタイルです。
店舗がないぶんだけ、安くお客様に呉服を提供できるというわけです。
そして自分の好きな柄や色で着物を誂えていただけるのです。
お茶席にふさわしい色柄を相談できるのも嬉しいところ。
御尊父の代で「ちくせん」を開業し、28歳でその跡を継ぎました。
秀治氏二代で遠州流茶道を戸川宗積氏に学びます。

遠州流では毎年御家元が、干支やお題にちなんだデザインで新年と夏に袱紗を好まれます。
その袱紗を手掛けているのが江澤氏です。
その洗練されたデザインと色は遠州流の綺麗さびならでは。
茶会では他流の方の目を惹きます。
御先代・紅心宗匠の代から好みの袱紗が始まり、御先代の得意とされた大和絵をモチーフにした、たくさんの袱紗が生まれました。そして現在は十三世宗実御家元が毎年好みの袱紗をお考えになっていらっしゃいます。
宗実御家元のお考えになるデザインは、江澤氏の頭の中にはない新鮮さがあり、御一緒に翌年のデザインを考えるのはとても勉強になるし楽しみですとおっしゃる江澤氏。
「今年の袱紗は御題「語」にちなんでいくつか図案を御家元にご覧にいれたところ、その本の図案の中に、遠州公の遺訓から「春はかすみ」といれてはと御提案がありました。
ご相談に伺うとたくさんのアイデアがすぐにでてきますので、御家元の感性で常日頃からお考えをふくらませていらっしゃるんだなと感じます。」
ちなみに来年は年号が変わることから、これまで一色だった袱紗の色を二色に。そして平成三十一年という数字から三十一の七宝と菊をあしらったデザインになっています。これも御家元のアイデア。来年の袱紗を拝見するのが楽しみです。
干支や御題に因んだ図柄と、日本ならではの優しい深い色みとの組み合わせは、御家元と江澤氏の翌年への想いが詰まった一枚です。
宗家研修道場の稽古や遠州流茶道の茶会では「源太萬永堂」の
お菓子をよくいただきます。
源田萬年氏は、修業先で戸川宗積先生のお稽古場にお菓子を納めるようになり
その後独立、宗積先生から本名の「源田」にちなんで、歌舞伎「悪源太」から
「源太」の名前をいただきました。
悪源太は豪勇で知られた源義平のあだ名。強いという意味と源が太るという
縁起の良い字ということでこの名がつけられました。
以来50年、都内の茶室をほとんど知りつくし、その茶室の照明を考慮に入れた上で、
季節やテーマに沿った取り合わせを考えます。

御子息の恒房氏も大学卒業後、父・萬年氏に師事、共に四季折々の菓子を作り出しています。
最近御家元にご指導いただいた中で印象に残っているのは、昨年の東京茶道会の2月、招待茶会のお見本をお届けしたときということで、その際のお話を伺いました。
「例年は新春の茶会ということで梅をモチーフにした菓子をご提案させて頂いておりますが、前年御家元が華甲をお迎えになられたこともあり、もっとおめでたい感じに祝意を表したものにしてはどうかとお話しを伺いましたので、酉年にも因んだものとして
丹頂をイメージしたものをいくつかお持ちいたしましたが、単に丹頂ではありきたりな見慣れた雰囲気で物足りなく思うとご指摘いただきました。
どうしたものかと思っていたところ、見本の中の茶巾絞りでお持ちしたものを
お家元がお手持ちの鶏の香合のような形で出来ないかとお話しがありました。
鶏は新しい年の日の出とともに一番最初に鳴く「明けの鳥」で大変縁起の良いものとされています。
いいアイデアを頂いたので、それなら工夫してなんとか形にしてみようと思いました。
思ったよりもなかなか難しく、最初は思うような形にならなかったり、揃わなかったり、頂点の感じが上手くいかなかったりと、多少苦戦しましたが、、、
当日お届けしてご覧頂いた時にこれならいいんじゃないかというような一言で及第点はいただけたのかなと一安心しました
もうひとつ思案していた菓銘も「鶏頭」となるほどと思うぴったりな(絶妙な)ものを付けて頂きました。席中でも御常家元のご趣向に皆様からも好評でした。」
お茶席で出会うお菓子の一つ一つに込められた意味と想い、
それらを心で感じながら大切にいただきたいものです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は塗師 中谷光哉・光伸氏をご紹介致します。
漆器は、下地の木地に漆を塗り重ねて作る工芸品。
狩猟・石器時代には既に使われていた漆は、その美しさだけでなく、
器の強度が増し、長持ちするという実用性も併せ持ちます。
また漆器自体が「japan」と英語で表記されることもあるほど、
漆器は日本を代表するものに数えられます。
石川県の山中温泉で有名な地域。ここに400年以上の歴史を持つ山中塗の技術が今に伝わっています。
中谷光哉氏は、1931年に小樽に生まれ、京都で一閑塗の修業をした後、
家業の山中塗を継ぎました。

戸川宗積先生とのご縁で向栄会の職方となり、
ご先代紅心宗慶宗匠・宗実御家元のお好みの道具を数々手掛けています。

長男の光伸氏は大学卒業後二年、茶道具の問屋で流通を学んだのち父・光哉氏に師事、
ご家族で漆器の制作に取り組んでいらっしゃいます。漆塗の手法は
○木地に下地を塗って磨き、塗って磨きを繰り返すことで光沢の生まれる「真塗」
○漆を薄く塗って木目を出す「掻き合わせ」
○生漆(きうるし)をぬって拭くことを繰り返し、木目を生かす「拭き漆」
○木地に和紙を貼り、上に漆を塗る「一閑張」
に大きく分けられます。同じ漆器でも、その手法を変えることでそれぞれに特徴的な風合いを持たせ、道具に様々な表情を演出することができるのです。
「御家元からは『格好の良さ』について度々指導いただいています。」
とお話しされる中谷さん。御家元にいくつかご覧いただいて、ここをこうした方が格好良いんだよね。とご指摘受けたところはもう一度作り直します。
格好いいとは文字通り「形姿の良さ」
美しく見える形というのは、単なる形や見栄えの良さだけでなく
素材を生かし、余分を取り払ったシンプルな中に残る
メリハリとシャープなライン、そしてその中に込められた
品格が表れた姿。他の茶道具との調和。そのセンスをいかに作品にだせるか
ということを常に意識して作品を制作していると仰っていらっしゃいました。
ご機嫌よろしゅうございます。
三重県と滋賀県の県境に連なる鈴鹿山脈の裾野に
清水氏の「楽山窯」があります。

写真:清水久嗣氏
久嗣氏は初代・清水楽山、父・日呂志氏と数えて四代目。
平成四年に父・日呂志氏に師事しました。
初代楽山氏は三重県の万戸焼に、高麗の作風を加え高い評価を得ました。
そして韓国に焼き物の指導で出かけていた父・日呂志氏は
李朝の土質、作風などを研究し現地に窯を造り作品を制作しています。
韓国で作られたものと日本で焼いたものを区別するため
箱書は韓国で作ったものを「駕洛窯造」、日本で作ったものを
「楽山窯造」と書き分けています。
遠州茶道宗家11世宗明宗匠の代からお付き合いがあり、代々御家元の指導を
受けながら作陶、綺麗さびの美に通じる作品を多く生み出してきました。
遠州流は高麗茶碗を好んで用います。
そもそも高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた日常雑器の中から、日本の茶人が
お茶の心にかなうものを見出し用いたことに始まります。
日用品としては欠陥ともいえるひづみやしみをあえて楽しむ日本人の
感覚が高麗茶碗をつくりだしました。
「茶碗の中でも特に高麗物が好きですね。」と語る久嗣さん。
その高麗茶碗の特徴を研究し、作陶に取り組んでいらっしゃいます。
今日は指物師・井川信斎氏をご紹介いたします。

茶の湯においての指物師の役割は、水指棚や炉縁、八寸など木地のものを作ったり
書付用の内箱、外箱を手掛けます。
格式を重んじ瀟洒なデザインの遠州好みの棚や箱は、
材木の選び方・細工の細部に至るまで高度な技術を必要とされます。
水指棚では、桑や黒柿、紅梅や桜など様々な種類の木の性質と
特徴を見極め、それらを組み合わせていきます。
同じ材料でもその模様の出方は全く異なるので、同じ作品は二度とできないのです。
こういった作品を金釘などを一切使わず、ほぞを彫って合わせていきます。

また、遠州好みの箱は、紐通しが丸穴で袋底です。
袋底の中は紐が通るように溝が彫ってあるという大変手のこんだ箱なのです。
そして木釘も他流派よりも太く、木を割らないように木釘を打つ技術も必要です。
父・初代信斉氏は同郷の川上文斉氏に師事し、
茶の湯指物師としては四代目を継ぎます。
文斉氏の後、遠州流職方を引継ぎ、向栄会の設立当初から名を連ねました。
その父に18歳で師事し修業をはじめ、平成22年に二代信斎を襲名。
「最初は刃物を研ぐことからで、その後は箱かな。
全ての箱が出来たら技術的には他の物も出来るから。たかが箱されど箱。」
と指物師として出発した始めの頃をお話下さいました。
こういった遠州流独特の技術を保持し、後世に伝える職方の魂が吹き込まれた
作品達にじっと目をやると、その想いが物言わず語り掛けてきてくれるようです
ご機嫌よろしゅうございます。今日は掛物などの表装をする
表具師・表具久生氏のご紹介をします。

表具久生氏は慶応大学工学部中退後、父である表具師加麗堂三代目、
表具弥三次氏に師事。
表具家は、加賀百万石の十三代目・前田斎泰公から名字帯刀を許され、
「表具」を名乗るようになります。
以来、古書画、古屏風の修理を能くする伝統を受け継いできました。
表具師の仕事は、掛物をつくるうえでなくてはならない仕事ですが、
資料に残るのはその掛物の中身や、名物裂といった表装された中身
表具という言葉や表具師の名前自体、
記録上登場することはなかなかありません。
しかしながら、掛物の中身を引き立てる裂の組み合わせや、配色など
深い知識と高い技術を持つ表具師がいなければ、
掛物はその本来の価値を存分に発揮することはできず、
その印象は色あせてしまいます。
久生氏の父・弥三次氏は、遠州流茶道の点初などお祝いの際に決まって
「高砂」などの謡を披露してくださいました。これも掛物に謡の内容がよく使われることから始めたと聞きました。
床の間にかけられる掛物には、表立っては語られない表具師の
高い心意気が詰まった道具なのです。
ご機嫌よろしゅうございます。

今日は釜師の根来琢三氏をご紹介いたします。
先祖は和歌山に住み、江戸時代には紀州藩の鉄砲隊をしていた
武家の流れをくむ根来氏。
その根来氏が、祖父・実三の代で釜師となり、二代茂昌氏、
そして琢三氏で三代目。
実三氏が東京で鋳金工芸作家であり、東京美術学校で指導をしていた
香取秀真氏から、11世宗明宗匠を紹介され、
遠州流職方としてのお出入りがはじまりました。
琢三氏が初めて釜を作ったのは高校3年生。
玉川大学芸術学科金属工芸コースで金属工芸の基礎を学び、
大学三年から釜をつくりだし本格的に釜の制作を始めたのは
大学卒業後二十二歳、以来一度も就職した経験がないので、
ボーナス時の世の皆様が羨ましいとおっしゃる根来さん。
祖父・実三氏の頃から横浜の寺家町で釜を作っています。
釜を作るために大量に炭を消費するのですが、
その炭を生産する寺家の環境が適していたようです。
現在、釜をつくる家も神奈川県では根来氏を含めて二軒しかありません。
その高い技術を要する釜の作り手は年々減る一方で、
「釜一つ あれば茶の湯はなるのを…」
と利休百首にもあります通り
茶の湯をするには欠かせない道具です。
ご機嫌よろしゅうございます。

本日から10月の向栄会展まで、お一人ずつ職方をご紹介していきます。
まず最初にご紹介する方は向栄会会長を務める藤森工務店の宇佐見忠一氏です。
藤森工務店は昭和の名工とうたわれた藤森明豊斉の意志を受け継いだ
数寄屋建築を専門とする工務店です。
護国寺・五島美術館・根津美術館・箱根彫刻の森美術館等などのお茶室を手掛けており、
現在の宗家道場に建てられた成趣庵も、御先代の意向を受けて
藤森工務店が施工しました。
宇佐見氏は、大学卒業後藤森工務店に入社。
遠州流茶道は宗積先生に師事し、数々の数寄屋建築に携わってこられました。
昨年の3月には上田卓聖氏に社長を一任し、
自身は会長として現在も後身の指導をされるなどご活躍中です。
綺麗さびを体現するには、お茶の道具だけでは完成しません。
遠州公の目指した茶の湯の世界を演出する、一番大きな装置が茶室といえます。
茶陶や掛物等たくさんの役者達が共鳴しあいながら、
茶室という空間の中でドラマチックな展開が繰り広げられ、
茶の湯の世界がより深く豊かなものになっていきます。
〇職方さんに質問!
数寄屋建築の数寄屋とはどういう意味でしょうか?
茶室を「数寄屋」とも言ったりしますがその定義は難しいものです。
建築の歴史の中でその意味合いも変化していきましたが、
「数寄」の言葉通り、「好き」に通じ、定石の建築方法と離れ、
その方のお好みで建てるといった意味合いもあります。
また数寄屋建築では角材ではなく丸太を主役とする建物でもあります。