→先週の続き
山の方へ眼をやると、そこだけが時雨が降っており、
見過ごしがたい眺めだ。
出てゆく けふの別を おしといふ
けしきながらの 山の時雨は
と、独り言ちする。
伴う人はいても、歌を詠む者ではないので、
この山の景にさへ不満そうな顔でいるのも
言葉こそださないが嘆かわしい心地でいると、
舟は矢橋の浦に到着した。
見送りに来てくれた人たちに、
別れを告げて舟から上がり、此の里を出る。
東の方角に向かえば鏡の山、おいその森も近い。
この山も時雨れて曇っている。
心ありて くもる鏡の山ならん
老そのもりの かげやうつると
と、また独り言ちして進む。
戌の刻(20時前後)水口の里に着く。
ここにまで都より人が訪ねてきてくれていろいろと話をしている程に、その夜も更けていった。
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ご機嫌よろしゅうございます。
今日から本文の訳をご紹介致します。
以下訳文
10月の8日江戸に向かうことになり
江月和尚より餞別の志を一偈にして、
手紙を添えてよこしてくださった。
公儀の用が忙しく、手紙を開く暇もなく
日も暮れ、伏見の里を朝も早くから出発し、
関山を越えて内出の里に到着する。
そこかしこから人が集まってきて、
心せわしくあわただしくしているうちに時も過ぎていった。
瀬田の長橋を渡ろうとするが日が短いので、
うち出の濱から渡し船に助けられて琵琶湖をすすむ。
北を見れば焦がれてやまない滋賀の故郷がみえる。
唐崎の松も懐かしく思われる。
ふるさとの 松としきかば旅衣
たちかへりこむ しがのうら浪
遠州公の「下りの記」は神無月、
10月の8日から始まります。
そしてこの寛永19年10月に遠州公は
江戸の飢饉対策奉行となっています。
「公の事しげくに…」と記されていた背景に
はこのお役目があったのでしょうか。
この年、寛永の大飢饉がおこり全国的な
飢饉にみまわれます。
農民たちは作物の育たない田畑を手放し、
身売りや江戸へ流入し、
飢えに苦しむ人々であふれていました。
その対応に追われていた幕府は、知恵伊豆と
言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった遠州公も
連日評定所にて協議を行いました。
このとき、将軍に茶道指南を請われたともいわれ、
この先4年間江戸にとどまることとなり、
俗に「遠州4年詰め」と呼ばれています。
この飢饉対策の対応のため動く幕閣や、
江戸に参集していた各地の大名に
遠州公の茶が広まるきっかけともなるのでした。
皆様あけましておめでとうございます。
今年一年の皆様のご多幸とご健康を
心よりお祈り申し上げます。
本年もメールマガジン「綺麗さびの日々」を
どうぞよろしくお願いいたします。
今年は、昨年ご紹介してまいりました小堀遠州公筆
「東海道旅日記」の「下りの記」をご紹介してまいります。
「上りの記」が綴られてから21年の歳月が流れ、
遠州公64歳での日記となっています。
当時の平均寿命が50歳位であったことを考えると
多忙な日々を過ごしながらも、大変長寿であったといえます。
元和七年の「上りの記」と比較すると、13日であった
旅程を10日という急ぎ旅で、
書体も心なしか走り書きの様子が感じられます。