「東海道旅日記」10月 2日 訳文

2020-7-2 UP

2日 晴天 風は烈しく 巳の時ばかりに風が静かになった。
四日市場というところに到着。この里に知人がいるので、
立寄って午時ばかりに出て 
濱田の里を過ぎて日ながの里にさしかかる

里人は 日永の宿と をしゆれど 
  折しも 冬の 日こそみじかき

と詠って、馬を早めて杖つき野にかかる。
この野を越えるのに徒歩の人の苦しさといったらない。

かち人の 東の旅の 草臥に
  つえつき野とや ひとのいふ覧

ようやくこの野をすぎて、石薬師というところに着いた。
庄野というところを通る時に、供の者どもが、
歌とはどのように詠むのかと問うと
その中に歌の心をしる人があったのだろうか。
感じたことを31文字で詠むのだと教えたので、
では詠んでみようということで、

 ひだるさに行事かたき いしやくし
  なにとしやうのゝ やき米を喰 

と詠んで この庄の名物だというやき米を、我もと求める。
供者の歌としてはまずまずといったところか。

→次週に続く

七里の渡し

2020-6-26 UP

さて、海路を進んだ遠州一行。
次の桑名宿まで船でわたり、その距離は七里(約27キロ)となります。
そのため同地は「七里の渡し」と呼ばれました。
京都や大阪に向かう人、お伊勢詣出の利用もあり大変賑わってたようです・
陸路の路もないわけではありませんが、こちらを通って桑名まで向かうには一日がかり。
海路を通ることで、天候にもよりますが4~6時間で到着することができたそうです。
とはいえ海難事故もしばしば発生し東海道の難所でもあったようで、やはりまだこの当時の旅は危険と隣り合わせでした。
渡り切った先の桑名は江戸から42番目の宿場町で、旅籠では宮宿に次ぐ2番目に大きい宿場でした。

徳川義直と名護屋城

2020-6-21 UP

義直公は徳川家康公の九男で、尾張徳川家の初代。 関ヶ原の戦いが慶長5年9月15日、そして11月28日に生をうけました。 6歳で元服、その翌年の慶長12年(1607)に尾張国の大名となります。 いまだ勢力を持つ大坂の秀頼や豊臣家臣の牽制のため、大坂と江戸を結ぶ東海道の中間点である尾張に徳川の砦を築く必要があり、家康は名古屋城の築城を開始。 そしてこの名古屋城の天守閣は慶長17年(1612)遠州公が作事奉行をつとめています。 家康公が亡くなった後、母御亀の方と共に1616年に名古屋城に入ります。 そのご縁もあってでしょうか。旅日記では尾張の国主である義直に手厚くもてなされ、船の用意もいただいてのお見送りでした。 このとき義直公21歳。義直公は学問を好み、儒学を奨励したといわれています。 名古屋城は昭和5年にお城では初めての国宝に指定されましたが、第二次世界大戦の名護屋空襲で焼失、市民の多数の寄付により1957年にコンクリートで再建。2018年には本丸御殿の復元が完成し公開されています。 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

熱田神宮と宮

2020-6-12 UP

里の名もこゝはあつたの 宮なれば けふより冬の 神無月哉 10月・神無月には、八百万の神様が出雲大社に集まり話合いが行われるといわれています。 そのため、たどり着いた熱田神宮では神様もお留守であろうと、御参りせずに進んだ遠州公。 熱田神宮は113年創建、三種の神器の一つである草薙神剣を神体とする天照大神が御祭神です。 「宮」と呼ばれるこの場所は、現在の名古屋市熱田神宮の門前町の名です。 この当時は現在の地形とは異なり、熱田神宮の前は海であったそうで、東海道唯一の海路であり、船着き場としても栄えていました。 また御三家・尾張徳川家のお膝元でもあり、東海道随一の繁栄を見せたといわれています。

矢作橋と秀吉

2020-4-24 UP

旅日記に登場する矢作の地は、日本武尊がこの地の竹で矢を作らせ、東夷征伐をしたことから「矢作」となったといわれています。この地に架けられた矢作橋は海道一の大橋で、天下第一の長橋とも称されています。この橋の西側には、ある石像が立っています。 豊臣秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃、父を亡くし奉公先から逃げ出し放浪。 この橋で野宿していた折に蜂須賀小六に出会い頭を踏まれたことに抗議したとされる逸話をもとにしています。しかし実際に矢作橋が完成したのは、秀吉が亡くなって後の慶長6年(1601)の事。江戸時代の中期に作られた「絵本太閤記」にでてくるお話がもとになってできた伝承のようです。

岡崎城城主

2020-4-17 UP

徳川家康公が生まれた岡崎城は、江戸時代には神聖化され、5万石と石高は高くはありませんが、岡崎城主となることは名誉あることで、家格の高い譜代大名が城主となったといわれています。 遠州公がこの地に訪れた際の城主は本田康紀公。遠州公と同じ天正7年(1579)生まれで、 初代三河岡崎藩主となった父の康重公の死去により家督を継ぎ、二代目藩主となりました。 この日記が記された2年後の元和9年(1623)家光公の上洛に従った後に病に倒れ、亡くなっています。 岡崎の街では家康公ゆかりの史跡が多く残り人々に親しまれています。4月には毎年恒例となっている「家康行列」が行われ、家康公をはじめ三河武士やお姫様に扮した約700名の行列が街を練り歩きます。最終地点となる乙川河川敷では戦国模擬合戦が繰り広げられ、岡崎の春の風物詩となっています。(※今年は残念ながら中止となりました。)

岡崎城

2020-4-10 UP

2006年、岡崎城は日本100名城に選定されました。宿場町としても栄えた岡崎は「家康の里」として今も親しまれています。
家康の祖父にあたる松平清康が現在の位置に城を移して以来岡崎城と呼ばれ、後の徳川家康も天文11年(1542)この岡崎城で生まれました。 その後人質として他国で過ごし、19歳の年に起こった桶狭間の戦いの後、岡崎城に戻り、名も松平元康から徳川家康と改め、家康の天下統一へ向けた取り組みが始まるのでした。
10年程岡崎で過ごした後、元亀元年(1570)には先日ご紹介した遠江浜松に本拠地を移し、岡崎は嫡男信康が、そしてその後江戸幕府が開かれてからは、「神君出生の城」として譜代大名がこの地を守っていきました。

9月30日 訳文

2020-4-3 UP

30日 快晴
ここからほど近い岡崎の城主は知り合いであり、手紙が届く。
なかなか到着の知らせが届かず、そろそろかと心待ちにしておりました。
藤川に到着したと聞き、お会いできること喜んでおりますと
丁寧に手紙に書いてよこしてくださった。
その返事に
 
今朝は猶 いそぎ出ぬる 草枕 
我をかざきに ひとのまつやと 
やがて(すぐに参ります)

と書いて送った。
日が昇るころに?岡崎に到着。城主が出迎えにとわざわざお出ましくださる。
一緒に城に入り、ひとしきり語り合い、巳の時(朝10時~12時)頃に城をでる。
橋を渡り、矢作宿に入る。城主は名残を惜しんでこの宿にまで見送りくださった。ここに馬を留め、

 もののふの やはぎがしゅくに いるよりも
なをたのみある ひとごころかな

と歌を詠む。城主は返しに

もののふの やはぎが宿に いるとしも
 をしてかへれば かひやなか覧

と詠んでお帰りになった。
別れてから八橋というところに到着した。杜若の名所なので、たくさん咲いているだろうと思ってみたが見当たらない。
 
やつはしに はるばるときて
   みかはなる 花には事を かきつばたかな

と詠むと、供の者が大変に面白がって話に興じているうちに地鯉鮒の里に着いた。
さらに進んでいって、そこに流れていた河があったので尋ねてみると、参河国と尾張の国の堺川という。
もう尾張の国に入ったのだなどという。
今日は9月30日なので、
 
東方 みちをばゆきも つくさねど
秋はけふこそ おはりなりけれ

と口ずさんで過ごし、芋川、阿野、有松の宿をも過て 鳴海の里に到着した。
伴う人の中に

  年ごとに のぼりては又 くだれども
     なにとなる身の はてはしられず

と詠む者もいた。
そこからまた笠寺、山崎の里を越えて 熱田の宮に到着し 宿をとる。

龍潭寺

2020-3-28 UP

浜松には遠州公作と伝わる庭のある寺があります。
それが龍潭寺。龍潭寺は徳川幕府を支えた筆頭井伊氏の菩提寺です。2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、歴史に翻弄され、一度は出家をしながらも元許嫁の息子直政を井伊家の当主として育てあげるため還俗し、女城主として奮闘する直虎の一生が話題を呼びました。この直虎が出家し過ごしていたお寺です。
四季折々にその姿を変化させる美しいその庭は、遠江国に残る伝遠州作庭園といわれる「遠州三名園」の一つに数えられています。
井伊直政が彦根の佐和山城主になったのを機に、1600年彦根にも龍潭寺の分寺が建てられましたが、こちらの庭も遠州公作と伝えられています。
http://www.ryotanji.com/

五位の里

2020-3-27 UP

東海道に里の名前は数あれど、五位の里とは位の高い里であるよと戯言を交わす遠州一行。
遠州公も慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に任ぜられていますので、自分より位が高いではないかと面白がったのでしょうか。
また「ゴイサギもいますよ。」と話題に出てきたこの鳥の名は「五位鷺」。
日中は休息し、朝夕活動し水辺でカエルなどを捕食する鳥で、こんな逸話があります。
醍醐天皇が、池にいたこの鳥を見つけ、捕えるように家来に命令しました。
鳥は逃げることなく素直に従ったので、命令にさからわず神妙であると、天皇から五位の位を授けられたといわれています。