三日 晴天。風は閑である。
この坂の下には四方に山を戴き、また渓は深く水の流れは
見慣れない景色である。
山の紅葉はさながら唐紅をかざしたような様子に見とれ、
足取りも自然と遅くなる。
いろいろの紅葉をかざす坂の下を
振捨かたき鈴鹿山哉
少しずつ坂を上り、山路を越えていくと、土山を過ぎ、
水口の里にさしかかる。
過ぎし三月の初めに、ここを通りすぎたことを思いだしながら、
左右に広がる田面を見て、
水口を縄代に見し あふみ路を
かへれば霜の おくて田(奥手田)となる
そこから和泉河を渡って、石部の里を過ぎたところで、
京より関迎えとして人々が出迎えてくれた。語りながら進んでいく。
心ありて時雨にくもりかがみ山
やつれぬる身の影を見せじ
などと言っていると、又雲が晴れ、曇りもない。
旅衣やぶるゝ影を見えしとて
かさきて腰をかがみ山かな
次週につづく
庄野のあたりにやってきた遠州公一行。
ここでは供の者が、名物のやき米にかけて
ひだるさに行事かたき いしやくし
なにとしやうのゝ やき米を喰
と歌を詠み、
「しもびとのうたには よしや あしや」と
遠州公の評価が記されています。
「伊勢物語」の33段(こもり江)をみますと
津の国、菟原の郡(現在の兵庫県芦屋辺り)に住む女に通う男へ、
この女が詠んだ歌が記され、
こもり江に思ふ心をいかでかは
舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしやあしや
と、続きます。
このことを踏まえて考察すると
遠州公はこの「伊勢物語」の33段を倣って
自分の歌を下人の歌として記したと想像することができるのではないでしょうか。
地蔵顔した遊女の客引きの様子が軽快に描かれていた関の宿。
こちらは交通の要衝であり、古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれていた地で、
東海道47番目の宿場町として栄え、現在でもその歴史的町並みを残す唯一の宿場です。
なぜ地蔵顔した遊女が登場したかといますと…
ここには最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院があります。
天平13(741)年、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
奈良東大寺の僧行基によってこの地に、地蔵菩薩を安置したと伝えられ、
東海道を旅する人々の信仰を集めました。
また、このお地蔵さんは、一休和尚が東海道を旅していた際に開眼供養されたというお話があります。
庄野を過ぎ、亀山に差し掛かった遠州公一行。
ここは松平忠明五万石の城下町です。
忠明公は1583年生まれ。
遠州公より4歳下で家康公の外孫でしたが、後に養子となります。
大坂の陣では大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当するなどしました。
(ちなみに遠州公も大阪の陣では家康公の旗本として参陣。)
戦後の戦功が考慮され、家康公の特命により摂津大坂藩10万石藩主、徳川大阪城の初代城主となります。忠明公は大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先し、天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大していきます。
大阪の名所「道頓堀」開削は、大坂の陣で一時中断していましたが、元和元年(1615)藩主となった忠明公が改めて開削を命じ、有志によって同年完成しました。そして当初「新川」「南堀河」などと呼ばれていた名称は、忠明公によって「道頓堀」と命名されました。