旅日記に登場する矢作の地は、日本武尊がこの地の竹で矢を作らせ、東夷征伐をしたことから「矢作」となったといわれています。この地に架けられた矢作橋は海道一の大橋で、天下第一の長橋とも称されています。この橋の西側には、ある石像が立っています。
豊臣秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃、父を亡くし奉公先から逃げ出し放浪。
この橋で野宿していた折に蜂須賀小六に出会い頭を踏まれたことに抗議したとされる逸話をもとにしています。しかし実際に矢作橋が完成したのは、秀吉が亡くなって後の慶長6年(1601)の事。江戸時代の中期に作られた「絵本太閤記」にでてくるお話がもとになってできた伝承のようです。
徳川家康公が生まれた岡崎城は、江戸時代には神聖化され、5万石と石高は高くはありませんが、岡崎城主となることは名誉あることで、家格の高い譜代大名が城主となったといわれています。
遠州公がこの地に訪れた際の城主は本田康紀公。遠州公と同じ天正7年(1579)生まれで、
初代三河岡崎藩主となった父の康重公の死去により家督を継ぎ、二代目藩主となりました。
この日記が記された2年後の元和9年(1623)家光公の上洛に従った後に病に倒れ、亡くなっています。
岡崎の街では家康公ゆかりの史跡が多く残り人々に親しまれています。4月には毎年恒例となっている「家康行列」が行われ、家康公をはじめ三河武士やお姫様に扮した約700名の行列が街を練り歩きます。最終地点となる乙川河川敷では戦国模擬合戦が繰り広げられ、岡崎の春の風物詩となっています。(※今年は残念ながら中止となりました。)
2006年、岡崎城は日本100名城に選定されました。宿場町としても栄えた岡崎は「家康の里」として今も親しまれています。
家康の祖父にあたる松平清康が現在の位置に城を移して以来岡崎城と呼ばれ、後の徳川家康も天文11年(1542)この岡崎城で生まれました。 その後人質として他国で過ごし、19歳の年に起こった桶狭間の戦いの後、岡崎城に戻り、名も松平元康から徳川家康と改め、家康の天下統一へ向けた取り組みが始まるのでした。
10年程岡崎で過ごした後、元亀元年(1570)には先日ご紹介した遠江浜松に本拠地を移し、岡崎は嫡男信康が、そしてその後江戸幕府が開かれてからは、「神君出生の城」として譜代大名がこの地を守っていきました。
30日 快晴
ここからほど近い岡崎の城主は知り合いであり、手紙が届く。
なかなか到着の知らせが届かず、そろそろかと心待ちにしておりました。
藤川に到着したと聞き、お会いできること喜んでおりますと
丁寧に手紙に書いてよこしてくださった。
その返事に
今朝は猶 いそぎ出ぬる 草枕
我をかざきに ひとのまつやと
やがて(すぐに参ります)
と書いて送った。
日が昇るころに?岡崎に到着。城主が出迎えにとわざわざお出ましくださる。
一緒に城に入り、ひとしきり語り合い、巳の時(朝10時~12時)頃に城をでる。
橋を渡り、矢作宿に入る。城主は名残を惜しんでこの宿にまで見送りくださった。ここに馬を留め、
もののふの やはぎがしゅくに いるよりも
なをたのみある ひとごころかな
と歌を詠む。城主は返しに
もののふの やはぎが宿に いるとしも
をしてかへれば かひやなか覧
と詠んでお帰りになった。
別れてから八橋というところに到着した。杜若の名所なので、たくさん咲いているだろうと思ってみたが見当たらない。
やつはしに はるばるときて
みかはなる 花には事を かきつばたかな
と詠むと、供の者が大変に面白がって話に興じているうちに地鯉鮒の里に着いた。
さらに進んでいって、そこに流れていた河があったので尋ねてみると、参河国と尾張の国の堺川という。
もう尾張の国に入ったのだなどという。
今日は9月30日なので、
東方 みちをばゆきも つくさねど
秋はけふこそ おはりなりけれ
と口ずさんで過ごし、芋川、阿野、有松の宿をも過て 鳴海の里に到着した。
伴う人の中に
年ごとに のぼりては又 くだれども
なにとなる身の はてはしられず
と詠む者もいた。
そこからまた笠寺、山崎の里を越えて 熱田の宮に到着し 宿をとる。