5月30日(月)ほととぎす
ご機嫌よろしゅうございます。
先週御紹介しました小倉色紙が登場する
こんな逸話がありますので、御紹介します。
聚楽第にて関白秀次が、
利休をはじめとする客を招いた時のこと
時は四月二十一日、暁の頃茶室には短檠の明かりもなく、
ただ釜の煮え音ばかりが聞こえるだけ
さて一体どういった御作意でろうと思っていると
利休の後ろにある障子が、ほのぼのと赤くなっていく
不思議に思って障子を開けると
月影が床の間を照らしている。
にじり寄って見てみると
ほととぎす鳴きつる方をながむれば
ただ有明の月ぞ残れる
の小倉色紙の掛け物がかかっていました。
なんと素晴らしい御作意であろうと
皆感嘆したのだそうです。
5月 27日(金)能と茶の湯
「大会(だいえ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「大会」のあらすじをご紹介しました。
今日はこの「大会」という銘の竹花入をご紹介します。
遠州流では、例年正月にお家元が青竹を自ら切り花入とします。
青竹の清々しさと、綺麗さびの瀟洒な美意識が表された
姿の花入とは対照的に、この「大会」は、
どっしりとした根付きの迫力ある花入です。
豊臣秀吉作、利休所持の由緒を持ちます。
「大会」とは大規模な法会、大法会の意味を表す言葉です。
禁中での能・狂言の会を含め、秀吉は「大会」を六度演じています。
スペクタクルな視覚的にも楽しめる内容の能で、
天狗扮する釈迦説法の荘厳な大会の光景が
目の前に広がるような姿の花入です。
5月 23日(月)ほととぎす
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
ただ有明の月ぞ残れる
ご機嫌よろしゅうございます。
初夏の訪れを知らせるものに、ほととぎすが挙げられます。
平安の時代、貴族の間ではほととぎすの第一声である
「初音」を聴くのがもてはやされました。
山鳥の中で朝一番に鳴くといわれるほととぎすの声を
なんとか聴こうと、夜を明かして待つこともあったようです。
先ほどの歌は百人一首、後徳大寺左大臣、藤原実定の歌です。
訳
ほととぎすが鳴いたその方角を眺めやると、
そこにはただ明け方の月が暁の空に残るばかりだ。
実定は定家の従兄弟に当たる人物で、
詩歌管弦に非常に優れた人物でした。
祖父も徳大寺左大臣と称されたので、
区別するため後徳大寺左大臣と呼ばれます。
実定も夜を徹して初音を待っていたのでしょうか。
一瞬のほととぎすの声に、はっと目をやるとそこに姿はなく、
夜明けの空にうつる月の明かりだけがみえる
聴覚世界と視覚的世界を美しく詠み込んだ歌です。
5月 20日(金)能と茶の湯「大会(だいえ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
十五日は七十二候の「竹笋生(たけのこしょうず)」でした。
またこの季節に「筍流し」という夏の季語として使われる言葉があります。
「たけのこ」が生える頃に吹く、雨を伴いやすい南風のことを表します。
竹の花入で能に所縁のあるものに「大会」があります。
今日はこの「大会」をご紹介します。
ある日比叡山で修行していた僧のもとに、一人の山伏が訪れ、
以前命を助けられた者だと言って礼を述べます。
この山伏、かつて僧が京童達にいじめられていたのを
助けた鳶(とび)でした。(この鳶は実は天狗)
釈迦が法華経を説いた時の様子を自分の目で見たいとの
僧の願いを、山伏は「叶えるが、信心を起こしてはならぬ」と言い、
僧の目前で釈迦に扮して再現します。
僧は先刻の約束を忘れて思わず信心を起こしてしまい
天から帝釈天が現れ、信心深い僧を幻惑したとして大天狗を責め立てます。
もとの姿に戻った天狗は、帝釈天に対して平謝りし逃げ帰っていきました。
5月16日(月)茶摘み
ご機嫌よろしゅうございます。
茶摘みの目安となる八十八夜は
立春から数えて八十八日目と言われ、
今年は5月1日でした。
しかしこの頃に摘まれるのは露地茶園の煎茶で、
抹茶にされる覆下茶園の茶摘みは
被覆効果が十分にあらわれ緑の濃いお茶になるのが
時期的に言うと5月の中旬。
ちょうど今頃から、摘み始めの時期になります。
さてこのお抹茶ですが、従来の製法を変えて、
古田織部は青みの強いお茶を好み、
これを「青茶」と呼ぶようになりました。
但し、青茶は色が綺麗ですが味にはやや難があった
と言われていました。
対して、弟子である遠州公が好んだのは
従来の製法の「白茶」でした。そのことから、
遠州公は好みのお茶に銘をつける際には
「白」の字をつけて青茶と区別したといわれています。
また茶銘には「昔」の字が使われていることが多い
ですが、これは遠州公が昔の製法に戻したという
事に起因しているという説があります。
そして「初昔」「後昔」は当時の茶師が筆頭のお茶の銘としていた、
由緒ある銘となりました。
それ以降、優れた品質の濃茶には「昔」の文字を
使うようになっていったと考えられています。
5月 13日(金)能と茶の湯「二人静」その二
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は能曲「二人静」を御紹介しました。
今日はその「二人静」にちなんだ裂地を御紹介します。
足利義政が「二人静」を舞った際
紫地に鳳凰の丸紋の金襴の衣装をまとったことから、
この文様を『二人静金襴』とよぶようになったと伝えられ、
大名物「北野肩衝茶入」や「浅茅肩衝茶入」の
仕覆に用いられています。
ちなみに、能では「ふたりしずか」と読まれますが
裂では「ににんしずか」と読むのが通例となっています。
5月 9日(月)宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
色とりどりの花達に目を楽しませてもらった後
次に目に飛び込んでくるのは清々しい新緑の青
季節は次第に春から初夏へと移りゆきます。
茶の湯ではそんな季節の動きをとらえ
床の間にその自然の姿が映し出されます。
5月1日は八十八夜でした。
この八十八夜についてはまた後日改めてお話したいと思います。
床 紅心宗慶宗匠筆 龍門登鯉
花 燕子花
花入 硝子 ポーランド
こちらの掛物は、端午の節句に因んだ画題
鯉の滝登りです。
「魚が三段の滝を登りきると昇天して龍になる」
という中国の故事に基づいています。
鯉のぼりを立てる風習や、「登竜門」という言葉も
この故事によるものです。
紅心宗慶宗匠が昭和丙申歳正月、男子出生を夢見、
描かれ(同年九月、宗実家元誕生)、
翌年、初節句の茶会に用いられました。
5月 6日(金)能と茶の湯「二人静」
ご機嫌よろしゅうございます。
晩春から初夏にかけて十字状にのびる4枚の葉の
真ん中からのぞく2本の花穂に,
白く小さな花が山林で咲く姿を見かけます。
この花の名は「二人静」
静御前の亡霊が舞う能曲「二人静」から
2本の花穂を静御前とその亡霊の舞い姿に
たとえて名づけられました。
今日はこの「二人静」を御紹介します。
吉野山の勝手神社の神官が、
正月七日に菜摘女(なつめ)に若菜を摘みに行かせます。
その菜摘女に静御前の霊が憑き、
神官のもとへ戻ってきます。
そして菜摘女に取り憑いた霊は、自分が静御前であることを
告げ、ここの蔵に自分の舞装束が仕舞ってあると言い、
それを身につけます。
菜摘女が舞い始めると、静御前の霊が現れ、
影のように寄り添って舞います。
静御前は義経の吉野落ちの様子や、鎌倉にて
頼朝の前で舞を舞わされた出来事を物語り、
神官に弔いを頼んで消えていきます。
5月2日(月)ちまきの話
ご機嫌よろしゅうございます。
5月5日は端午の節句
和菓子屋さんには節句にちなんだちまきや柏餅が並びます。
関西ではちまき、関東では柏餅が主流と
言われたりしますが、このちまきと柏餅については
以前メルマガで御紹介していますので、
今日は川端道喜のちまきを御紹介します。
爽やかな香りのする青々とした笹にくるまれた
とろんとした葛のちまき
「水仙粽」との名前で今も人々に愛されています。
このちまきの発祥は室町時代に遡ります。
この頃の朝廷は衰退し、お姫様も食べるものに
事欠く有様でした。それを見かねた,御所前に餅屋を
営んでいた川端道喜が朝廷に餅を運んだのだそうです。
以来この朝の慣例は東京遷都の前日まで、
350年にわたり休みなく続いたのだそうです。
さらに御所のために力を貸した道喜に感謝し
吉野から献上された葛を下賜します。
その葛で作られたのが「水仙粽」
ちなみに初代・道喜は千利休の同門で学び、
「利休百会記」にも二度ほどその名が登場する
風流人だったようです。