11月 30日 (月)木守り
ご機嫌よろしゅうございます。
柿や柚子、様々な自然の恵みをいただき、
収穫する際に、来年の豊作を祈り
木に一つだけ採らずに残しておく実があります。
これを「木守り」といいます。
そしてこの「木守」という銘をもつ茶碗があり、
長次郎七種茶碗に数えられています。
長次郎七種茶碗とは
黒楽の「大黒」「東陽坊」「鉢開」
赤楽の「早船」「臨斎」「検校」「木守」
の七碗をいいます。
この「木守」の銘の由来は、
利休が弟子に長次郎の茶碗を分けた際、
この一碗だけは最後まで手放さなかった
あるいは門人に選ばせ、最後に残った一碗である
または茶碗の姿が柿に似ていることから
など諸説あります。
後に高松藩主松平家に献上され、武者小路千家では
家元襲名披露など重要な茶会の際に松平家から
借りて茶会を行っていましたが、関東大震災で
壊れ、後に破片の一部を使い復元されます。
高松ではこの「木守」の茶碗にちなんだ菓子が
作られており、その模様は渦巻きが描かれています。
これは「木守」茶碗の見込みの渦巻きを模したものだ
そうです。
11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(3)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は道の記下りの一日目
寛永十九年十月八日の日記の一部を
ご紹介します。
「神無月初の八日武府(ぶふ)に赴く為」
洛北の傍より餞別の志を一偈して 消息そへて給ふ
おほやけのことしげきに ひらきもえせで
その日もくれ竹の 伏見のさとを
まだき朝に立て関山をこえて うち出の里に着」
公務が忙しく、出発の前日に江月和尚からいただいた
手紙を読む暇もなく一日すぎてしまった。
「道の記」はこの一文から始まります。
このなかの「ことしげきに…くれ竹の…」
という一節からは、遠州蔵帳所載
遠州公自詠歌銘のついた茶杓
ことしげき 年は一夜に くれ竹の
伏見の里の 春のあけぼの
の歌が思い浮かびます。
11月 25日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・準備と前礼」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶事の前礼と準備についてご紹介します。
お茶事をしたいと思ったら、まずはテーマを決めて
どんな趣向でするかを考えてみましょう。
華甲のお祝い
自分の好きな道具を披露するため
結婚のお祝い
季節を楽しむ
etc
大体の趣向が決まったら誰をお招きするか
案内状を書きます。
正客から順にお客様の名前・日時・場所などを記します。
巻紙といって一枚の長い紙にそれらの内容を
記し、くるくると丸めたらそれを平らにして
封筒に入れます。
案内状が届いたら、お客様は返事を出し、
当日までに挨拶にいきます。
これは「前礼」と呼ばれるもので、この時に
当日移動にかかる時間を確認し、遅刻のないように
準備すると安心です。
当日は遅くても、早過ぎても失礼なので、
15分前くらいを目安に向かいましょう。
11月 23日 (月) 小雪(しょうせつ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の小雪にあたります。
小雪は昨年もご紹介しましたが、
寒さは増すものの、まだ雪はさほど多くない
頃です。落ち葉を北風が揺らし、日差しは
徐々に弱くなっていきます。
北海道では雪が舞っていることもありますが
本州中部あたりですと、11月も半ば位には
降りはじめる頃。
平安時代には初雪が降ると、
「初雪の見参り」といって、高官たちが
宮中に参内して、雪見をし、酒宴を催したり
棉や碌を賜る慣わしがありました。
「雪月花」と言われるように、
春の花、秋の月と同じく、雪の降る景色は
日本人が昔から愛でてきた冬の美の形です。
11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(2)
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして今日は「道の記 下り」を
ご紹介します。
「下り」が記された寛永十九年(1642)は
先日ご紹介した遠州公の江戸四年詰めが始まる
年でした。
「徳川実記・大猷院記」には五月二十六日に
将軍に参謁したという記録があります。
その江戸行きの前に、遠州公は江月和尚や京都所司代
などの親しい人を招いて、名残を惜しむかのように
「在中庵」や「飛鳥川」茶入などで茶会を催しています。
この旅が親しい人達との今生の別れとなる
と感じていたのではとも思える、
寂しさの感じられる節々もあり、
今一度京都へ戻りたいと願う心が読み取れます。
心を共にした友人たち、松花堂、長闇堂は既に
この世におらず、江月和尚も遠州公が
江戸に出府中の寛永二十年、十一月に
この世を去っています。
11月 18日(水)遠州流茶道の点法
「茶事を自分なりに」
ご機嫌よろしゅうございます。
気のおけない友人知人、普段お世話になっている方を
お招きして行う茶事は、とても楽しいものです。
しかし、難しい決まりごとや固定観念に囚われ
茶事は茶室で、立派で道具ななければならないと
自分には縁がないと思っていらっしゃいませんか?
確かに正式な茶事を経験することは、
その茶事本来の意味を知るうえでも貴重な経験ですが、
お茶事を行う一番の目的は、大切な方をおもてなし
すること。その心があれば、
たとえ茶室や高価な道具がなくとも、
工夫次第で自分なりの茶事ができるはず。
そしてお客様と亭主として、
ご自分が普段お稽古で学ばれていることを
大いに生かして、自分ならではのお茶事をしてみては
いかがでしょうか?
11月 6日(金)遠州公所縁の地を巡って
「遠州の四年詰め」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永十九年(1642)六十四歳の十月
将軍家光のお召しに応じ、お茶を献じます。
これより正保二年まで足掛け四年江戸に
留まったと言われています。
世に「遠州四年詰め」と呼ばれています。
しかし、近年この四年詰めでは、
茶の湯の指導者としてだけでなく、
優れた官僚としても手腕を発揮していた
ことが分かってきました。
当時全国的な飢饉にみまわれ、その対応に追われて
いた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった
遠州公を寛永十九年五月二十一日に寛永飢饉対策奉行
として要請し、連日評定所にて協議を行いました。
それにより、飢民の救済、根本的な農村政策の立て直し
のための法令立案などが次々と行われていきました。
江戸に留まる間、遠州公は各地の数寄大名の
求めに応じ、その綺麗さびの茶を伝えたと思われます。
幕僚としても茶人としても、
遠州公の名は今まで以上に広く知られることと
なったのです。
11月 16日(月)空也と茶筅
ご機嫌よろしゅうございます。
三日前の11月13日は空也忌でした。
空也上人は平安時代、諸国を遍歴して踊りながら
念仏を唱えることで庶民に念仏を勧めました。
「寺を出る日を命日とせよ」と遺言したため、
寺を出たこの日が命日になっています。
さてこの空也上人は、当時流行した疫病を
退散させるおまじないとして柳の木を削り
削り花をつくりました。
これが茶筅の原型と言われています。
そして京都の空也堂の僧が、
青竹茶筅を作り、竹の竿にその茶筅を
藁にさしたものをつけて肩に担いで売り歩く
「茶筅売り」という年末の風物がありました。
この茶筅で正月にお茶を点てていただくのが
「大福茶」とよばれるもので、無病息災の
御利益があるといわれました。
この大福茶についてはまた来月ご紹介します。
11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。
六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。
文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。
11月 11日(水)遠州流茶道の点法
「茶事について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から茶の湯の正式な形である茶事について
お話ししていきたいと思います。
茶の湯は禅院寺院で行われていたしきたり、
風習が入っているもので、それは通常の点法の
中にも様々な所作に見受けられます。
そして禅宗でもお客様をもてなす方法として
お茶を点ててしばらく休んでお食事を
お出ししたり、逆にお食事をお出ししてから
お茶を差し上げるといった形式があります。
そのような禅院のおもてなしの心が茶の湯に
結びついてお茶事という形になっていきました。
そのうちのお茶を点てる部分、お点法を日々の
お稽古で行っているわけで、つまり普段お稽古
している点法は、この茶事の一部分を切り取って
いることになります。
そういったことからも茶の湯の醍醐味は
お茶事ということになります。
季節や時の流れ、また人生の節目に際して行われる
様々な意味合いの茶事があり、
また相伴するお客様によっても
どれ一つ同じく茶事というものはなく、毎回毎回
違った形になるものです。