4月 6日 (月) 青柳(あおやぎ)

2015-4-6 UP

4月 6日 (月) 青柳(あおやぎ)

青柳の 糸よりかくる
春しもぞ 乱れて花の ほころびにける

ご機嫌よろしゅうございます。

桜の美しい姿を愛で、春の季節を満喫する
頃ですが、同時に青々とした柳の揺れる様を
眺めるのも楽しいものです。

この和歌は
古今集 春上 紀貫之(きのつらゆき)
の和歌です。

青柳が糸を縒(よ)り合わせたように
風になびいているこの春に、
一方では桜の花が咲き乱れていたことよ。

柳と桜は共に都の春を彩る代表的なもので
風になびく青柳の細枝と、咲き乱れる桜の花の
緑と紅の色の対比が、都の春の風景を色彩豊かに
とらえた和歌です。

禅語にも「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」
という言葉があります。

瀬戸間中古窯に遠州公が「青柳」と銘命した
茶入があります。
釉薬の流れがまさしく青柳の細い枝のような景の
茶入です。

4月 3日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-3 UP

4月  3日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「駿府城」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「駿府城」についてご紹介します。

天正期、駿府を拠点にした家康は
駿府城を四年かけて築城
しかし小田原の北条征伐で戦いに勝利した
家康は、関東に国替えとなって江戸に移ります。
家康は完成間近であった
駿府城に入ることが出来ませんでした。

そして慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いに勝利した家康。
今度は駿府城を身内の内藤三左衛門信成に与えます。
家康が大御所として駿府城主となると、内藤は
長浜城主として琵琶湖の長浜に移りました。

慶長12年秀忠に将軍職を譲り大御所となった
家康はいよいよ修築を終えた駿府城に移り住みますが、
間も無く火災にあってしまいます。
そこで年が明けた慶長13年、
遠州公が駿府城の作事奉行を命じられます。
その功により
従五位下諸大夫遠江守に任命され、
以後小堀遠州と呼ばれるようになるわけです。

遠州公30歳
この一年、遠州公は駿府に滞在していたようです。
また織部も同様に駿府におり、家康へ茶の湯指南や
茶会を催していたようです。

そして残念ながら遠州公の手がけたこの駿府城も
今度は家康没後の寛永12年(1635)
茶町からの出火が原因で城内に飛び火、
豪華絢爛な天守や御殿をほとんど失ってしまいました。

駿府城がどんな城であったのか、わからなくなってしまった
部分も多くありますが、遠州公と大工頭であった中井正清が
後に手がけた二条城とこの駿府城は同じ作り手による
ものであることから、内部の意匠その他が酷似していたと言われ
二条城からその当時の様子を偲ぶことができる
と言われています。

現在では本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、
巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。

4月1日 (水)遠州流茶道 春の茶の湯

2015-4-1 UP

4月1日 (水)遠州流茶道
春の茶の湯

ご機嫌よろしゅうございます。

いよいよ四月に入り、茶の湯も点法で
炉を使用する最後の月となりました。

春爛漫、可憐な草花が咲き始め、
と同時に口切りから床の間の主役であった椿の花がいよいよ終わりを告げます。

新芽がでるまで古い葉を残す譲葉(ゆずりは)
も、新しく芽を出し始めた若々しい
緑に代を譲り、古い葉を落とし始めます。

茶席の設えとしては、
透木釜や釣釜が春の気配を感じさせますが、

茶席でお出しするお菓子も、春は一層華やかで
心が躍ります。
宗家ではよく「花衣」(赤坂塩野製)をお重に持って
野点のような風情でお菓子をいただきます。

また「若草」と呼ばれる松江の銘菓があります。
新緑を思わせる美しい緑と柔らかな
求肥が楽しめるお菓子です。
こちらは松平不昧公が一月から四月の茶席に
使われたと言われています。
不昧公の

曇るぞよ 雨降らぬうちに摘みてこむ

栂尾山の春の若草

の歌からついた銘です。

他にも春をイメージして作られた菓子はたくさん
ありますので、是非皆さんも探してみてください。

茶席の道具と共に、菓子は季節を感じさせ
私たちの目と舌を楽しませてくれます。