4月29日(水)遠州流茶道の点法

2015-4-29 UP

4月29日(水)遠州流茶道の点法
風炉の設え

ご機嫌よろしゅうございます。

4月も終わりに近づき、5月になると茶の湯の設えが風炉に変わる
季節となります。
炉に塞ぎをして、風炉を壁付きの方へ置き、
火気をお客様から遠ざけます。

炭の寸法も炉に比べて細く短いものを使用し、
風炉は季節の変化に伴って
土風炉・唐銅の前欠・切合せ・鉄風炉
と使い分けていきます。

灰型も昨年ご紹介しましたように、
季節や用いる風炉、また祝儀等によって
古くは三十六種ありました。このうち代表的な
三種を用いるようになっています。

窯は炉用の大ぶりなものから風炉にかける
小ぶりのものにかえ、
柄杓も風炉用の小さめの合のものに。
道具組も初夏の清々しさが感じられる設えを意識します。

4月 27日 (月) 山吹(やまぶき)

2015-4-27 UP

4月 27日 (月) 山吹(やまぶき)

ご機嫌よろしゅうございます。

暖かい日差しの中、ふと街をあるいていると
黄色く可愛らしい花が幾つも咲き、
私たちの目を楽しませてくれます。

山吹はバラ科の木で、山峡の渓流沿いに黄金色の花を
咲かせる落葉樹です。民家にも植えられることの多い
比較的身近な植物です。

六玉川と呼ばれる名所のうち、宇治・京田辺には
井出の玉川と呼ばれる、山吹の名所があります。
奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)が
ヤマブキを植えたことから名所となり、
多くの歌人が競って歌を詠んできた場所です。

さて、この愛らしい山吹の花の黄色を想起して、
遠州公が続後撰集の定家の歌から
銘とした茶入があります。

山吹の花にせかる  思河
いろの干しほはしたに染めつつ
定家

この「思河」茶入は下に赤い色、上に黄色の釉薬が
かかっており、山吹の黄色にちなんで
名づけられました。

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-24 UP

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。

関ヶ原の戦いで家康の旗本として
加わった遠州公の父、新介正次は
その功により1万石の加増を受け備中松山城を
あずかることになります。

そして慶長九年(1604)
新介正次が亡くなってからも
遠州公が引き続き備中を預かることになります。
紙や鉄の生産の盛んなこの地で
若き時代、代官として活躍した遠州公。

その遠州公の影響は今でもこの街に見ることができます。
今日は備中松山城についてご紹介します。

標高430mにある備中松山城は、
現存天守を持つ山城としては日本一高いお城です。
もとは山陰と山陽の要所として、多くの戦乱の舞台となり
戦の要としての城の役割をしてきました。
遠州公が父・新介正次と共に入国した際には
城は長い戦乱により、城郭も建物も未だ
修復されず、石垣や土塁が残るのみで荒廃していました。
そして泰平の世の到来。
遠州公は城の修復を行い、
備中松山のシンボルとしての優美な山城に姿を変えました。
(後に松山城主となる水谷勝宗も城の修復を行って
います。)

白い漆喰塗りの壁と黒い腰板の美しい天守は、
国の重要文化財にも指定されています。

また現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、
県の史跡に指定されています。
御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、
普段の居城となった場所のことを指します。

その建物を城壁に囲まれ、遠州公の手がけたといわれる
心字池を囲む庭に当時のおもかげを忍ぶことが出来ます。
また学校内には茶室が建てられ、多くの生徒が
ここで茶の湯を学んでいます。

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-22 UP

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法
「袋茶碗(ふくろちゃわん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

3月25日にご紹介しました茶碗披きのお点法で
披露した茶碗に、亭主がその茶碗の格に応じて
裂を選んで仕服を作ったり、またお客様から
名物裂などを贈られたときに、その裂で仕服を
着せたりします。

そのため、お茶碗を披露した際と同じお客様を
改めてお招きし、今度は茶碗ではなく袋を
ご覧に入れるお点法が袋茶碗です。

茶道具に添えられる仕服の紐結び、
もともとは茶の湯が武将の戦略の一つになっていた時代、
高い身分の方に茶を差し上げる役の間で
主君の暗殺を防ぐため、自分一人の心覚えの封印結びを
したのがはじまりといわれています。
その結び方は文箱の封じ結びと同じように
紐が解かれているとすぐにわかるようになっており
教えることも習うこともない
幻の紐結びとされていたそうです。
戦国時代が終わると、このような封印結びとしての
意味合いも徐々に薄れ、花鳥風月に結びを託すようになったと
されています。(「茶の結び緒 」 淡交社)

遠州流茶道の袋茶碗の結び方は飾り付けに十三種類、
しまい込みに二種類あり、
季節やその裂の状態に応じて結び方を変えています。

4月 20日 (月) 苺(いちご)の旬

2015-4-20 UP

4月 20日 (月) 苺(いちご)の旬

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は苺について
ご紹介したいと思います。

ちょっと意外に思われるかもしれませんが、
いちごの旬は4月。
ただし、これは露地物の話で、
現在はハウス栽培が盛んで、
出荷量が多いのは12月後半から2月にかけてです。
特に12月はクリスマスケーキのため需要が高く、
促成栽培が行なわれています。
スーパーでも、少し寒くなった頃に
店頭に苺が並ぶのを見ると、今年もいよいよ数ヶ月か
などと思ったりします。

消費者の要望に応えて、苺も早め早めに作られる
ようになった、ということのようです。

現在では数多くのブランドがあり、栃木の「とちおとめ」や、
福岡の「あまおう」、静岡の「章姫」などが有名で、
白い苺なるものもお目見えしました。

とは言え今でも春の露地物の苺は安く、
しかも甘さが強く、おいしい物が多いようです。
しかし、気温が高いせいかいたみやすいとのこと。

旬のお味が気になる方、
今日は苺を召し上がってみてはいかがでしょうか?

4月 17日(金)遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

2015-4-17 UP

4月 17日(金)

遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。

4月 15日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-15 UP

4月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「二種点(にしゅだて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

濃茶のお稽古で
「二種点」というお点法があります。

「二種」とはお茶の種類が二種類という意味で、
文字通り、二種類のお茶をお点てする
お点法です。

昔、お客様に招かれたお客様が、手土産として
お茶を持参したりすることがありました。

当時お茶は大変貴重なものです。
11月の口切から使用していたお茶も、
年をまたいで徐々に炉の終わりの季節ともなると
香りも落ちてきます。
そんな時、招かれたお客の方で、手持ちのよい
お茶があったり、はたまた大名など位のある方などが
お茶を持参し、亭主はいただいたそのお茶を二服目に
その理由を伝えてお客様にお点てする
これが二種点です。

一種目は亭主がもともと用意していたもので
一服差し上げ、二種目はご到来の御茶でございます。
ということで、予め茶入を用意していないので
真の棗で出すということになります。

二服点てることが予め分かっているので、
湯温を下げないように中水をしないこと
二服目は少し小服に加減し、さっとお点てすることなど
注意します。

4月 13日 (月) 曳山祭り(ひきやままつり)

2015-4-13 UP

4月 13日 (月) 曳山祭り(ひきやままつり)

ご機嫌よろしゅうございます。

この時期遠州公ゆかりの地・長浜では
日本三大山車祭の一つである、曳山祭りが行われます。

この祭りは国の重要無形民俗文化財に
指定されています。
安土桃山時代、長浜城主であった羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)に初めての男の子が生まれ、
喜んだ秀吉が城下の人々に金を
振る舞いました。
町民達はこれをもとに十二台の山車を作って
八幡宮の祭礼に曳き回したのが
この祭りの始まりといわれています。

江戸時代に入ると、曳山の舞台で子ども歌舞伎が
演じられるようになりました。
これがまた見事で、アメリカ大統領であったクリントンから
ホワイトハウスへ招待されたこともあるそうです。

秀吉に男子が生まれたのは天正17年(1589)、
遠州公はその頃十代の少年です。既に
大和郡山に移り住んだ頃かと思われますが、

それにしても遠州公の時代から、今も続く
お祭りがあることに、驚きと喜びを感じます。

4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-10 UP

4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵(こほうあん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は慶長十七年(1612)三十四歳
龍光院に江月宗玩を開山として孤篷庵を創設します。

この孤篷は二十代の時に
春屋宗園禅師から賜った号で
以下の偈が残っています。

扁舟聴雨 漂蘆萩間(扁舟雨を聴いて、芦萩の間に漂う)
天若吹霽 合看青山(天もし吹きはらさば、青山を看るべし)

故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ
いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿を、
「天がもし風雨を吹き払ったならば
すがすがしい青山を看ることができる。
すなわち禅の境涯に達することができれば
その道で成功を収められるであろう。」
と将来の遠州公の境涯を看破し、
教え導いています。

春屋禅師は遠州公が最も深く帰依した師で、
「宗甫」「大有」の号も師からいただいています。
生涯の茶会において一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師であり、正月三が日の掛け物は必ず
師の墨跡を掛けたそうです。

後、寛永二十年(1643)遠州公六十五歳のおりに、
現在の地に孤篷庵を移築し、
晩年を過ごすことになります。

4月 8日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-8 UP

4月 8日 (水)遠州流茶道の点法
「二服点て」

ご機嫌よろしゅうございます。

お茶を飲み終わり
「亭主から今一服いかがですか?」
と尋ねられた際、是非もう一服頂きたい
と所望することが出来ます。

その際亭主は二服目をお客様にお点てします。
これが「二服点て」のお点法です。

お客様は所望の際
「大変美味しく頂戴しましたので、
今一服お願いします。」
と返答します。この返事、以前は
「とてもの儀にて、今一服」
と答えたのだそうです。
武家茶道らしいですね。

炉の時期では、中仕舞いを解き、
中水をした後なので、お湯を一柄杓茶碗に汲んだら
湯加減が悪くならないように
釜の蓋に茶巾がのった状態のまま、
すぐに蓋をしめます。

また水指の蓋も炉の時期は
空けた状態では中の水が見え、寒々しいので
一度閉めて点法を行ないます。