黒田藩の茶の湯

2014-12-21 UP

12月 21日 黒田藩の茶の湯
 
ご機嫌よろしゅうございます。
 
2014年の大河ドラマ軍師官兵衛も
 遂に本日完結となります。
 
このメールマガジンでも、日曜日に一年を通じて
 官兵衛の時代にまつわる茶の湯のお話を
 ご紹介してまいりました。
 今日はその最終回ということで、
 その後の黒田藩の茶の湯についてお話ししたいと
 思います。
 
官兵衛や、その子長政、孫忠之と続き、茶の湯に
 深く親しんだ黒田家ですが、
 三代藩主となる光之の重臣であった
 立花実山(たちばなじつざん)が後の黒田藩の茶の湯に
 大変な影響を与えていきます。
 以前にもご紹介しました「南坊録」と呼ばれる
 利休の茶の湯の精神や心得を表した「茶道の聖典」
 を編纂しました。
 現在「南坊流」として、福岡の地にその流れを汲む
 流儀が残っています。

六世 宗延

2014-12-20 UP


12月 20日 六世 宗延

ご機嫌よろしゅうございます。

今日12月20日は小堀家六世の
宗延公のご命日にあたります。

16日にお話した五世宗香公の嫡子に不幸が続き、
遠州公の弟・仁右衛門政春から続く
四代目仁右衛門惟貞の子であった宗延公は
九歳で、宗香公の養子となります。

宗延公の母は、宗香公の娘ですので、実際には
祖父と孫という関係です。

しかし、養子となった後に、宗香公に実子が誕生し
その子が無事成長したため、十九歳で退身して家督を
譲り、養父宗香公の領地・小室に移ります。

小堀家が改易されると、京都代官を勤める兄の
邦直のもとに移りますが、その兄も翌年他界。
不遇の生涯のうちに七十一歳で亡くなります。

作品等も伝来するものは少なく、極めて稀です。

千宗旦(せんのそうたん)

2014-12-19 UP

12月 19日 千宗旦(せんのそうたん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は利休の孫にあたる千宗旦について
ご紹介します。
遠州公の一歳年上、12日にご紹介した
宗和と共に、この時代を代表する茶人です。

父は千少庵、母は利休の娘亀と言われ、
天正六年(1578)に生まれます。

天正十九年祖父である利休の切腹、
父少庵は秀吉の許しがでるまで
蒲生氏郷に預けられます。
子供の頃の宗旦は大徳寺に預けられ、後に
遠州公も参禅する春屋宗園のもとで修行します。

遠州の「綺麗さび」、「姫宗和」の金森宗和
そして「むさし宗旦」と表現された宗旦の茶は
清貧・高潔を旨とした徹底した侘び茶でした。

祖父・父の生き様を目の当たりにしてきた宗旦は
決して士官することはありませんでした。
しかし、自分の子供達の行く末を案じ、
仙叟宗室の士官先を加賀百万石前田家とすべく
遠州公の弟・左馬之介に斡旋してもらったことが
わかる文章が今でも残っています。

遠州公の選ぶ和歌

2014-12-18 UP

12月 18日 遠州公の選ぶ和歌

ご機嫌よろしゅうございます。

茶の湯の盛んになった時代から、
床の間の一番の掛物といえば、墨跡。
そして唐物などであったことは既にお話ししました。

また、武野紹鴎が「天の原」の和歌の歌意をもって
墨跡に準ずるとして、床の間にかけたことも
何度かふれました。

そのような流れの中で、
茶の湯では暗黙のうちに、和歌の中でも
恋歌は、茶の精神にそぐわないということから
用いられませんでした。

しかし、遠州公はこのタブーを破り、
恋歌を多くの茶道具に用いています。
これは、道具への恋にも似た密かな想いを
歌銘に託しているともとれます。

本来「和歌」は、男女の交流の貴重な手段でした。
遠州公は、その和歌の本質を生かし、
日本らしい奥ゆかしさ・日本の美しさを
茶の湯に取り込んでいこうとしたのではないでしょうか。

歌銘(うためい)

2014-12-17 UP

12月 17日 歌銘(うためい)

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公が中興名物茶入の選定に際し、
「歌銘」を多くつけたことは、
これまでに何度かお話してまいりました。
その出典は勅撰集を中心に、古典的な
和歌から言葉を選び、つけられています。
雅で洗練された「綺麗さび」を象徴するもの
の一つです。

しかしこの「歌銘」
遠州公が初めて使ったわけではありません。
今のところ一番古い「歌銘」は、
4月28日にご紹介した、義政公の「遅桜」

夏山の 青葉まじりのおそ桜
初花よりもめづらしきかな

といわれています。
しかし、それ以後は遠州公ほどに「歌銘」
を多用した茶人は他にいません。

また、和歌の選び方にも、遠州公は
これまでにない感覚を茶の湯に吹き込んでいます。

五世 宗香

2014-12-16 UP

12月 16日 五世 宗香

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流五世正峯宗香公のご命日にあたります。

元禄三年(1690)三世宗実公の三男として生まれます。
五歳の時に父が他界
九歳で将軍綱吉の御小姓となり、
翌年の崩御まで仕えます。

二十四歳の時には、兄の四世宗瑞公が他界したため
その遺領を継ぐことになります。

小堀家を継いでからは
家継・吉宗・家重の三代に勤仕
若年寄として、幕府で活躍し、
遠州公以来の小堀家の家名を大いに高めます。

12月 16日 七十一歳で亡くなります。

歳の市(としのいち)

2014-12-15 UP

12月 15日 歳の市(としのいち)

ご機嫌よろしゅうございます。

いよいよ今年も数えるほどとなりますと
「歳の市」が開かれる頃です。
正月用品や縁起物の他、陶器や乾物、古着など
様々なものが店先に並びます。

昔は今のように便利ではなく、日々物品の
売り買いがされていたわけではありませんでした。

そんな中庶民はこの歳の市で、次の年の
暮らしに必要なものを買い揃えていた地域が
多いのだそうです。

江戸時代から有名な場所としては
浅草の浅草寺、埼玉県の氷川神社、
川崎の平間寺や鎌倉のハ幡宮
などがありました。
最近ではアメヤ横丁などの、年末叩き売りの
風景がテレビで中継され、大勢のお客さんで
賑わっている様子が恒例となっていますが
これも「歳の市」のひとつです。

 討ち入り

2014-12-14 UP

12月 14日 討ち入り

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は赤穂浪士討ち入りの日。

ご存知の方も多いかと思いますが、
この討ち入りの日には茶の湯も深い関係があります。

町人になりすまし、吉良家出入りの茶人
山田宗偏に入門した赤穂浪士の大高源吾が、
師から吉良邸での茶会の日にちを聞き出し、
吉良上野介の討ち入りが決行されたといわれています。

山田宗偏は、千利休の孫、千宗旦の弟子で
宗旦四天王に数えられる茶人でした。

この討ち入りの陣に、水屋に置かれていた桂籠を上野介の首代わり
として白布にくるみ槍に刺して四十七人が行進したという
エピソードがあります。
因みにその逸話を証明するかの如く、御影にある
香雪美術館所蔵の桂籠には槍をさした様な穴が開いています。

(※正しくは宗偏のにんべんはぎょうにんべん)

心の駒(こま)

2014-12-13 UP

12月13日 心の駒(こま)

ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残すところあと数日となりました。

茶の湯では年の初めに用いた干支のお道具を
この年末に再び使って、
一年を振り返りつつお茶をいただきます。
宗家の稽古場では、家元が今年好まれた
「手綱・七宝文」の茶碗が再び使われていました。

遠州公自詠の和歌に

よしやただ 心の駒は あれぬとも

ついにのりしる 道を尋ねむ

という歌があります。

駒というのは馬のことで
どんな荒馬であっても、その御し方次第で
最後にはその荒馬も乗りこなすことができる
ということから、
激しい変化に翻弄される日々の中にあっても
己の心を正しく持ち、荒馬のごとく
乗りこなすことができれば、仏の世界を知り
立派な人間となることができる
ということを表した歌です。

遠州公の時代から400年以上経った今
世の中は便利なものに溢れ、豊かになりました。
しかし、私たちの心はどうでしょう?
どのような状況にあろうとも、
己の荒馬を乗りこなし、
自在に操れるようにありたいものです。

12月 12日 金森宗和(かなもりそうわ)

2014-12-12 UP

12月 12日 金森宗和(かなもりそうわ)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公と同時期に活躍した茶人
金森宗和についてご紹介します。

天正十二年(1584)、秀吉のもとで
飛騨の国を預かる可重(ありしげ)を父に、
嫡男として生まれます。
しかし、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣で
の徳川方を批判したことで父・可重に廃嫡され、
母とともに京都へ移り住みます。
その後、遠州公や、松花堂昭乗などと交流を
深める中で、茶の湯についても大きな影響を
受けていきます。

京都や大阪周辺の町人は「宗和流」
と称して、宗和の茶を好み学ぼうとしたようです。

織理屈
綺麗きっぱは遠江
お姫宗和に
武蔵宗旦
という言葉があるように、公家との交流も深める中で
姫好み、公家好みの印象が強い宗和ですが、これは
後代に生まれた印象のようです。

明暦二年(1656)73歳でなくなります。